cats and dogs

‐original BL novels‐



夜明けまで (十六)

   § : 「夜明けまで」 続・妖は宵闇に夢を見つ
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 同じ日の夜。ほぼ満月に近い、だがあとは細ってゆくばかりの十六夜が、天頂を間もなく通り過ぎる頃合。
 長の住まう小御殿、月明かりに白い蕾が映える芙蓉の群れが傍らに広がる広廂にて。杯を手に、槐がくつくつと笑っていた。
「しかし、おまえも存外に子供じみたところがあるんだな、空。相当に面食らっていたぞ、あの若者」
「そのようなことはありませんよ」
 槐と差し向かいに、いつになく不機嫌そうに座した長が、綺麗に指を添えて杯を持ち上げ、口に運んだ。
「私としては、充分に優しく接したつもりです」
「相手は甦ったばかりで、さぞ混乱していただろうに。あの葵という人間、元々は豪族の若君だそうだな。なかなか悪くない若者じゃないか」
 すっかり面白がっている槐を、長があかい刺青の映える切れ長の目許で一瞥した。普段が到って温厚であるだけに、その薄い刃のような目付きだけで、気の弱いものなら震え上がりそうだった。
「あれがまずいとは、別に言っていませんよ。人間の若者にしては立派だ、とは思っています」
「要するに、あれか。子を盗られる親の気持ちか」
 槐はいたってけろりと、含み笑いを続けている。その様子に、長がひときわ冷ややかな目付きになった。
「おまえは厭な男ですね、槐」
「ひどい言われようだ」
 まだ笑っている槐に、長はぷいと顔をそらし、手酌で酒を注いでまた煽った。
「そもそも葵殿は、蓬莱に帰ってほしいという私の頼みを、ものの見事に袖になさった。その結果があれでしたからね」
「だがそれがあったから、今こうして万事めでたしめでたしになったわけじゃないか。終わり良ければ、と言うだろう」
「万事ではありません。おかげで……」
 言いさしたところで、長は詮も無いというように途切れさせた。そのまま脇息に凭れ、しばらく黙り込む。はらりはらりと、どこからともなく藤の花弁が舞い、長の艶やかに流れ落ちる黒髪や、金糸で精緻な刺繍を施された衣の上に降りた。
 長は杯に酒を注いだものの、それを口に運ぶこともせず、やがて小さく嘆息した。
「……葵殿のことは、決して嫌いではありませんよ」
「うん?」
「むしろ本来は、夜光のしたことを詫びねばならぬほどです。あの者はいささか頑固なところはありますが、性根の真っ直ぐな心優しい、い若者です。夜光のように少し気性の尖った子には、あれくらいの方が合うでしょう」
「ほう。意外にも、しっかり評価しているんだな」
 酒を飲みながら、案外真面目に槐は言った。
 長はほろ苦いように、だが心からのように小さく笑った。
「私も自分で、自分に少し驚きました。長く生きてきましたが、子など持ったことはありませんでしたからねぇ」
「そうか」
 今度は槐はいつものようにからかうことはせず、軽く笑みながら、ただそれだけを返した。
 しばらく二人はどちらも黙って、互いの杯に酒を注ぎ、ゆっくりと口に運んだ。
 涼みのある夜風が遣り水の上をなぞり、そこに落ちた花弁をすべらせる。月明かりに仄かな花の馨が立ち交じり、どこからともなく現れた蛍が光の尾を暗い水面にちらつかせた。
 夜空をゆっくりと動いてゆく月と雲を見上げていた長が、やがて逸らして槐に視線を向けた。
「おまえには、これからはあの子と親子として過ごしてほしかった。それが残念です」
「あいつが拒否しない限りは、ちょっかいを出しに来るさ。親子になれるかはともかく、俺もあいつは可愛いからな。陵の奴も、何も四六時中俺を閉じ込めておくわけではあるまいよ」
 槐はてらいもなく言い、ちらりと長を見て笑み含んだ。
「俺よりも、おまえの方が大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。何ですか、その笑いは」
 ややむっとして言い返した後、長は表情を和らげた。いつになく寂しげに。
「陵殿の介入の如何によらず。おそらく夜光は、この終の涯を出て行くでしょう。……こういうことになるのでは、と予想はしていたのですよ。誰が許すと言っても、あの子は自分を許さない。そういう子ですから」
 たとえ冥魂珠が解呪され、贄となった者達が甦っても、夜光のやったことは消えない。犯した罪が消えるわけではない。むしろ周りにいる誰もが夜光を責めないからこそ、夜光は自分なりにけじめを取ろうとするだろう。そのために、この終の涯から──長の絶対の庇護の下から離れようとするだろうことは、想像に難くなかった。
 それが予想できたから、だからこそ長は、槐が陵を捜しにいってから、僅かな間だけでもと夜光を間近に置いて過ごした。夜光のため、槐のためではあったが、何よりも長自身がそうしたかったからでもあったのだ。
「なかなかの親馬鹿だな、おまえも」
 槐が銚子を取り上げ、長に向かって差し出した。長は少しばかり柳眉を吊り上げながらも、微笑を崩さぬまま杯を持ち上げ、それを受けた。
「余計なお世話です。おまえも、人のことは言えないではありませんか」
「そうか? 俺なんぞまだまだだと思うがなあ」
 月明かりと柔らかな行燈の灯の中、酒を酌み交わしながら笑い合う声が、遣り水の上を伝ってゆく。
 その夜は随分遅くまで、二人の交わす声と、仄明るく広廂を照らす灯かりが絶えることはなかった。


 やがて東の空の際が少しずつ明らむにつれ、夜空を渡る月はその姿を白く薄れさせてゆく。
 それにしたがい、夜の翼の下から野鳥達が目覚め始める。澄み切った黎明の中に囀りが響き、障子をうっすらと透かす明るさに、ふ、と夜光は目を覚ました。
 鳥達の鳴き交わす声が響く他は、まだ多くのものが寝静まっている静寂の中。
 薄明るく白み始めた部屋の中には、あまり色彩がなく、何の物音もしなかった。自分と同じ寝床、すぐ傍らで眠り込んでいる葵の寝息の他は。
 夜光の新雪のように白い睫毛が瞬き、すぐ間近にあった葵の顔を見つめた。
 信じられないように、少し泣きそうに、柔らかな形をした眉根が揺れる。
 夜光は瞼を閉じて、そろそろと深く胸の奥から息を吐き出した。
 自分を宥めるようにしばし目を瞑っていた夜光は、静かに身を起こすと、自分のすぐ傍らで寝入っている葵に再び視線を落とした。
 薄い肩に白い単衣を引き寄せながら、夜光はほんの小さく微笑んだ。
 折れそうに細く白い指を伸ばし、起こさないように注意しながら、無心に眠り込んでいる葵の朱色の髪を撫でた。疲れているのだろう、ぴくりとも葵の瞼は動かなかったが、その深い呼吸は健やかだった。
 ──夢ではなかった。
 微笑みながら、玻璃のように澄んだ紫の瞳に、うっすらと涙が滲んだ。
 夢ではないのかと、まだ疑っていた。これは本当のことだと、昨夜葵の腕の中で何度も確かめたけれど、それでもまだ夜明けが来るまで、そこで葵の姿を確かめるまで、どうしても少し恐かった。
 閉められた障子の向こうが少しずつ明るさを増し、鳥達の囀りがますます賑やかになってゆく。
 何度も見聞きしていたはずなのに、鳥達の囀りも、朝の明るさも、久方振りに身に染みるような気がした。まるで長く暗い隧道を、やっと通り抜けたように。
 白んでゆく光と囀りの中で、夜光は全身から力を抜き、瞼を閉じた。
 ──ああ、本当に。もう、夜は明けたのだ。


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