cats and dogs

‐original BL novels‐



夜明けまで (十一)

   § : 「夜明けまで」 続・妖は宵闇に夢を見つ
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 そこは最玉楼の本館からは少し離れた、長の離れと同様、美しい遣り水と庭園に囲われた一棟だった。
 特別な貴賓を迎えるための紫水殿は、赤紫の夕暮れに染まる空の下、幾つもの釣り燈籠に照らされている。澄んだ遣り水に無数のあかりが映り込み、建物全体が幻想的に浮かび上がって見えた。
 紫水殿は規模こそ小さいが、極楽の御殿かと見まごうばかりに美しい。高い天井には入り組んだ梁と壮麗な天井画が巡らされ、柱には螺鈿を用いた繊細な模様が刻まれている。美事な宝石や絵画や彫刻がそこかしこを彩り、季節や客人の好みに合わせた花や飾りが溢れ、居室に到っては、客人が過ごしやすいようその都度内装を整える徹底ぶりだ。調度品ひとつを取っても、長の離れよりもはるかに豪奢だった。
 先に立って黙々と歩いてゆく長の後ろを、夜光も黙って歩いていた。
 かつては最玉楼の最高級の「花」であった夜光でも、この紫水殿には数えるほども足を踏み入れたことはない。ここに関しては、訪れる側が希望すれば上がれるわけではなく、最玉楼側が通すに相応しい相手なのかを選別する。最玉楼にある客室の中で、最も美しく格式が高い場所だった。
 会わせたい客人がいる、と長は言ったが、この紫水殿に逗留しているということは、その相手は恐ろしく身分の高い存在なのだろう。終の涯では「外」での立場や身分は度外視されるが、純粋に存在が高貴なもの、優れたもの、尊いものには、相応の敬意が払われるのが習わしだった。
 人払いしてあるのか、あたりには誰の姿も気配もない。多少なりとも緊張し、いったい相手は誰だろう、と困惑しながら歩くうち、両開きの壮麗な扉の前に着いた。
 玉が填め込まれ花と神獣を掘り抜いた絢爛で分厚い扉は、長と夜光を迎え入れるように、誰が手を触れるでもなくひとりでに開いていった。
 暗がりの中、塵ひとつなく磨き上げられた床板に、無数の灯かりが映り込んで揺れていた。静謐な空間一面に揺らめいていたのは、翡翠色の美しくも妖しい炎──どちらかというと縦に長いその部屋の壁面は、無数の燭台に埋め尽くされていた。
「失礼致しますよ」
 長は軽い言葉をかけただけで、歩を進めてゆく。夜光も奥に向かって一礼してから、長の後に続いた。
 ふ、と鼻先を甘い匂いがかすめた。どこかで覚えがあるような匂い。
 無数の灯りが星のように揺れる、夢幻のように美しいがどこか恐くもなるようなその突き当たりに、薄い紗の幕が降ろされた天蓋と御座みくらがあった。
 行燈に照らされた御座の前には何段かの黄金細工の階があり、全体に少し位置が高い。ふわりとした明かりの灯るあの沙幕の奥に、この紫水殿に招かれた賓客がいるのだろう。
 御座に近付くにつれて、甘い匂いが強くなる。月下美人の芳香にも似ている。いったいどこで、この匂いを嗅いだのだろう。
 夜光が考えかけたとき、豪奢な御座の陰から、前触れもなく上背の高い姿が現われた。
「おう。久し振りだな、馬鹿息子」
 この豪奢な御殿にふさわしいとは言い難い、よく通るぞんざいな声。簡素な面に墨染めの衣を纏った、不吉な影が人の形を取ったかのような姿が、何食わぬ顔でそこに立っていた。
「……槐様?」
 思わぬ再会に驚いたのと、突然投げられた言葉に、夜光は素でぽかんとしてしまった。
 ふらりといなくなったときと変わらない、どこか飄然と構えた様子。余裕のある表情は、軽い笑みすらたたえている。
 出会い頭にひどい言われようだが、その言い様すら、おそらく槐なりの愛情と照れ隠しの賜物なのだろうと、今なら思える。槐の顔色は思うほど悪くなく、背筋も伸びていて、夜光は安堵のあまり表情が緩みかけた。
 ──良かった。相変わらずの口の悪さはどうかと思うが、何はともあれお元気そうだ。
 紗幕の向こうには、女性か男性かは分からないほっそりとした影が、薄く透けている。その紗幕に向かって、長が声をかけた。
「お待たせいたしました。夜光を連れて来ましたよ」
 夜光は我に返ると、慌てて前に進み、御座の前で深く腰を折った。御座に近付くと、ますます甘い香りが強くなる。どこか官能的な、甘いけれど品のある匂い……どうやら御座の奥で香が焚かれているようだ。
 なぜこの場に槐がいるのか不思議だったが、今は客人の方を優先すべきだろうと、夜光は頭を切り換えた。
 こういった場では、夜光はまず長から紹介され、発言を許されてから初めて声に出して挨拶する。それまでは相手の姿を見ないよう、深く頭を下げたままでいるのがならわしだった。
「おやおや。これはまた、一段とあでやかに可愛らしくなったのう」
 薄紗の向こうから、低めの艶のある女性の声が言った。
 その声を聞いたとき、夜光は思わず決まりを忘れて顔を上げてしまっていた。
「……そのお声は……」
「ほう。覚えておったか」
 女性の声が笑みを含んだ。
 知らず、息を飲む。覚えている。忘れるわけがない。そうだ、この甘い香りは……あの夜に嗅いだ匂い。夜光は古い記憶を手繰り寄せるように、ゆっくりとその名を唇から紡いだ。
みささぎ様……ですか?」
 ──あの幼い日の夜、夜光の首に冥魂珠をかけた、その天女の名。
「そうじゃ。わらわじゃ」
 陵と呼ばれた女性の淡い影が、幕の向こうで軽く掌を振る仕種をした。
「ああ、もうこの鬱陶しい幕はいらぬ。こんなにすぐに言い当てられるとは思わなんだ。つまらぬのう」
 降りていた薄紗が、するすると音もなく左右に引かれてゆく。圧倒されてしまうような雰囲気のある妖艶な美女が、脇息に凭れて座していた。
 まろやかな曲線を描く肢体を包んでいるのは、瑠璃紺の生地に深緋と金の糸で美しい模様を描いた上衣うわごろも、ふわりとかかった常磐色の領布ひれ、花が咲くように広がる蒲葡えびぞめの裳。流れ落ちる豊かで艶やかな黒髪は、香油で入念に整えられ、複雑な形で結い上げられたところには簪や髪飾りが挿し込まれている。首元や耳や指、手首や足首にも、無数の宝玉や金銀の装飾が煌めいており、陵の僅かな仕種のたびに、ちりちりとかそかな響きを奏でていた。
「覚えていてくれて嬉しいぞえ。久しいのう、夜光」
 陵に呼びかけられ、すっかり呑まれて茫然と見上げていた夜光は、慌てて深く頭を下げた。
「こちらこそ、ご無沙汰でございました。陵様におかれましては変わらずお健やかであらせられますようで、何よりでございます」
「ほほ。まあ、そう堅苦しくならずとも良いわ」
 陵は、すっかり寛いだていでいる。
 長が夜光に視線を巡らせ、口を開いた。
「あらためて紹介する必要はありませんね。この度はおまえと引き合わせたくて、わざわざここまでおいでいただきました」
「私と?」
 夜光は顔を上げ、状況をつかみかねて首を傾げた。
 陵。そう呼ばれている女性と夜光が会ったのは、過去に一度だけ。
 陵の正体は、誰も知らない。陵という呼び名すら、ただの通り名に過ぎない。かつては天帝の后だったとも、創世の頃から生きているとも、何度も転生を繰り返しているとも言われている。素性のまったく分からない妖麗なる天女だ。
 いったい何のために、長は彼女を呼んだのだろう。ふと夜光は、急に何処ぞへ姿をくらました槐は、もしやこのために動いていたのではないかと思った。
 それまで素知らぬ顔をしていた槐が、夜光と目が合うとにやりと笑った。その様子に、いよいよ夜光は確信した。
 困惑しつつ、ともあれ陵と話してみれば理由も分かるだろうと、夜光はあらためて陵に向き直り、深く腰を折った。
「いつぞやは、大変お世話になりました。陵様」
「あの頃は、そなたもまだほんの童じゃったのう。どれ、近う寄れ」
 陵が夜光を招き、夜光も素直にそれに従った。
 黄金の階を昇り、御座の手前に両膝をつく。もっと近くに、と手招きされ、夜光は深く一礼して、もう少し前に進んだ。
「これはこれは。ふふ……ほんに、宵闇に咲く徒花あだばなのように美しくなったものじゃ」
 陵はやや身を乗り出すようにして、夜光に真っ白い腕を伸ばした。陵の爬虫類の身体のように冷たい掌が、夜光のすべらかな頬にふれる。感触を確かめるように、夜光の頬から耳に、首筋に、着物の前合せから覗く鎖骨に触れてゆく。
 その妖しくひんやりとした手の感触に、夜光は思わず身を竦ませてしまった。陵はまじまじとそんな様子を覗き込みながら、美しい翡翠の瞳に笑みを滲ませた。
「そなたの見かけも魂魄も。実に、妾の好みじゃ。いびつであるがゆえに美しい。風にも折れそうなほど儚く優しげに見えて、その肌の下にははげしく昂ぶる熱い血潮が通っておる……実に快い」
 至近距離から覗き込んでくる陵の底知れぬ瞳を、夜光は吸い込まれるように見返していた。
 頬や首筋を這う白い手や、そのあかい唇から紡がれる低めのしっとりとした声音に、無性に背筋がぞくぞくする。絡め取られるような陶酔感。
 あのときもこうだった。陵に初めて会い、人の血を棄てて完全な妖になりたいのだ、と申し出た夜も。
「そなたの白さは、血の色を知っている白さだの。穢れているからこそ際立つ純白じゃ」
 満足そうに笑んだまま、陵はようやく夜光から手を離した。夜光は催眠から覚めたように、はっと瞬いた。
 陵は優雅な仕種で脇息に凭れ直し、御座の脇に立っている槐を、細い顎でしゃくった。その仕種に、髪飾りと耳飾りから下がった宝玉や細工が、鈴を振るような音を立てた。
「何を思うてかの。そこの男が突然、妾のもとを訪れてなあ」
「槐様が?」
 黙って立っている槐に、夜光も視線を動かした。
 槐は素知らぬふうで遣り取りを見守っているだけで、夜光の視線を受けても何も口を開かない。
 陵は鮮やかな化粧に彩られた目許を細め、笑み似た表情をした。
「たかが一介の夜叉如きが、妾の居所を探り当て、しかも辿り着いたことには驚いたがのう。じゃがまあ、そこな盤古が後ろに居たというのならば納得じゃ」
 盤古、と長を呼んだ陵に驚き、夜光は長にも目を辿らせた。
 長の正体である「盤古」とは、天地開闢の創造力と破壊力の双方を持つ、天の神々にも並び立つ大妖怪だ。あまりに恐れ多い本性であるがゆえに、誰も長を「盤古」とは呼ばない。ただ「長」とだけ呼ぶ者が多く、最玉楼の楼主、終の涯の守護者、などと呼ぶ者もいる。
 そんな長が招いたからこそ、陵も応じた。だが招かれたからといって、やすやすと応じるほど、陵も人が好くはなかった。
 陵は槐を見やり、大仰な溜め息をついた。
「遣いに寄越すには、こやつは無礼にも程があろうぞ。妾の館に、いきなり結界と門を破って踏み込んで来おった。八つ裂きにして魍魎どもにでもくれてやろうかと思ったわ」
「俺は何度も呼びかけたぞ。あんなに幾重にも障壁を巡らせている方が悪かろう」
 悪びれもせずに言った槐に、陵がくつくつと細い肩を揺らして笑った。
「こやつも、随分とおかしな男じゃ。これほどの呪詛に蝕まれておれば、普通であればとっくに闇に食い散らかされておる。まぁ、それでの。こやつに免じて、話だけは聞いてやることにしたのじゃ。そうしたら、この男はなんと、そなたの父親だというではないか」
 陵の深淵を宿す美しい翡翠の瞳が、夜光を見つめた。夜光はその眼差しに呪縛され、身動きもできずに妖艶な天女を見返した。
「聞けばこやつは、そなたの冥魂珠の願解きをしてくれぬか、という。何故かと問えば、そうすることで冥魂珠の贄となった者どもがしゅから解放され、甦るのではないか、とな」


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