cats and dogs

‐original BL novels‐



三章 宵闇に夢を見つ (十一)

   § : 「妖は宵闇に夢を見つ」
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 ざぁん、と、真っ直ぐなあおい水平線の果てから、穏やかな波が浜辺に打ち寄せる。
 蓬莱と呼ばれる異界へと繋がる海。憎い人間たちの国へと繋がる海。
 夜明け頃に最玉楼をふらふらと出て、あてもなく彷徨っているうちに、気がつけば夜光は「虚ノ浜」と呼ばれているこの浜まで来ていた。
 入り江になっている白い浜には、この季節はまだほとんど足を運ぶ者もない。松林を背にし、海鳥が舞うばかりの浜辺は、波も静かに凪いでいる。
 一晩寝ておらず、いろいろなことがあった上に無闇に長く歩いたせいか、頭がぼんやりしていた。海岸の松林には柔らかな青草が生えており、夜光はその木陰に入ると、潮の匂いと寄せては返す波音に包まれ、吸い込まれるように眠りに落ちた。
 夢も見ないまま次に目覚めたら、光輪を持つ太陽の位置は、もうだいぶ天頂を過ぎて西に傾き始めていた。
 清水の湧き出る水汲み場の、冷たく甘い水で喉を潤す。それからまたふらふらと、足の向くままに白い砂浜を歩き出した。
 歩くうちに足袋も草履も砂まみれになってしまったので、適当に脱ぎ捨てた。濡れた砂の感触と、さらさらに乾いた砂の感触が、どちらも心地良い。波打ち際を歩き、冷たすぎない初夏の海水が白い素足を洗うのを、しばらく無心で楽しんだ。
 虚ノ浜と呼ばれるここには、様々なものが漂着する。海のものは勿論、何処か余所の異界からも、何かの拍子に境を越えた様々なものが流れ着く。それらは何かの残骸だったり、生き物だったり死骸だったりと雑多だった。
 ぽかりと空いた穴や虚は何処ぞとも知れぬ異界に繋がる、と昔から言われている。異界へと通じる海に向かい開けたこの浜が「虚ノ浜」と呼ばれているのも、そういった言い伝えからきているのかもしれない。虚、と呼ぶには、明るく開けすぎた場所ではあるのだが。
 穏やかな海をぼんやりと眺め、果てることのない波音を聞きながら白い浜辺を歩いていると、かつてこの浜で出会った相手のことが、そこから始まった日々の出来事が、無意識のうちに甦った。
 そのうち歩き疲れて、ぱたりと砂の上に座り込んだ。
 ──今もはっきりと覚えている。波打ち際に傷だらけで倒れていた葵の姿を。初めてその青みがかった綺麗な瞳を見たときのことを。瀕死だったその身体に精氣を吹き込み、身動きもままならないのを手助けしながら、毎日世話をして傷を癒やした。
 天女と間違われて口付けをされたときのことが、脳裏をよぎった。そのときの葵の、ひび割れて少しちくりとした唇の感触を思い出し、知らず指が己の唇にふれていた。
 あの頃は、まだ葵に応えたことは戯れだった。戯れのつもりだった。だが思い出すあの口付けのなんと優しく、甘い感触だったことだろう。
 はっと我に返り、唇を噛んだ。ほんの少し油断した隙をついて湧き上がってきた感傷を振り払うように、握り締めた手を砂に打ち付けた。
 そのまま俯いて、洩れそうになった嗚咽をこらえる。
 泣くものか、と自らを強く叱咤した。人間なんて信じない。人間に心など許さない。彼らはしょせん、無知で無力であるがゆえに、己と異なるものを頭から嫌悪し拒む種族だ。人間ではないというだけで忌み嫌い、挙げ句の果てに、逆らえないと見るや痛めつけて抑え込もうとする。醜く弱く、卑劣で恐ろしい種族だ。
 座り込むうちに、いつの間にか空が茜色にうっすらと染まり始めていた。
 極光を帯びた空が透明な夕紅に染まりつつあるのを眺めながら、懐を探り、そこに挿し込んでいた匕首を掴み出した。
 目にも綾な布袋に納まった、葵の匕首。それをしばし睨みつけた夜光は、静かに打ち寄せる海に向かって、思い切り振り上げた。
 海に投げ込もうとしたその腕が、だがどうしても動かなかった。
 もうこんなものは捨ててしまえと思うのに、指が離れない。腕を振り下ろせない。投げ捨てようと思えば思うほど、この匕首を葵から預かったときのことが甦った。
「う……」
 どうしても振り下ろせないまま、砂の上にだらりと腕が落ちた。それと共にとうとう嗚咽がこぼれ、夜光はぎゅうと匕首を握り締めたままで、涙が落ちぬように強く目を瞑った。
 この匕首の由来など何も分からない。葵がどんな思いをこの匕首に込めていたのかも分からない。だが葵からこれを手渡されたとき、葵の魂と命の半分を預かったように感じた。
 葵の髪色のような夕陽に染まった視界が、滲んで歪みかける。夜光は何度も息を詰めて、涙が零れるのをこらえた。
 ──いつから自分は、これほど葵を想うようになっていたのだろう。
 初めは、時折流されてくるマレビトの一人にすぎなかった。昔と違い、今でこそ「人間」だからと無闇に拒絶することはない。だが「人間」という種族に対する感情は、好意的とは程遠かった。浜に向かい葵を助けたのは、ただの義務感だった。
 だが共に過ごすうちに、いつしか葵との種を隔てる垣根は氷解していた。素のままで怒ったり呆れたり、笑ったりすること。その相手が葵であること。あのたわいもない日々の、どんなにか優しく嬉しく幸せであったことだろう。
 浜辺に座り込み身動きできないうちに、水平線が見事な夕映えに染まってゆく。眩しい夕陽が、ひどく目と心に沁みる。
 そもそもこうしてこの浜に来てしまったのも、ここが葵の記憶に繋がる最初の場所だったからだ。ここで初めて、夜光は葵に出会った。夜光にはそれだけで、この浜辺は特別な場所に変わっていた。
 だけれど。
 ──そうか。ならば俺を助けたのも、いずれは喰うためだったということか。
 耳の奥にこだまする、月明かりの差す縁側で聞いた葵の声。
「違う……」
 誰も聞いてくれる者のない浜辺で、夜光は呟いていた。
「そんなつもりは、なかった……信じて……」
 あのとき夜光を見た葵は、見たことの無い眼差しをしていた。夜光を責め詰るよりも、ただ哀しく苦しげに思い詰めた、そして夜光を見限ったような瞳。そんな目で見て、葵はついには夜光に背を向けた。
 人間などしょせん信じるに値しなかったのだと、いくら繰り返し自分に言い聞かせてみても、虚しく上滑りしてゆく。
 葵は自身も蓬莱では「鬼子」と呼ばれ、思い込みだけで忌避される理不尽や哀しみを知っていた。だから葵は、見かけや種族差にとらわれることがなかった。
 葵が夜光に背を向けたのは、夜光が「人ならぬもの」だったからではない。ただ、夜光の犯した所業に憤ったからだ。そんな葵だから、夜光は我知らず葵に心を開き、次第に惹かれていったのだ。
 葵が悪いのではない。夜光自身も、自分が惨いことをしていると知っていた。だから葵に知られたら、もう共には居られないと分かっていた。だから、多くは望まなかった。
 ……いいや、違う。少しも分かってなどいなかった。
 胸が潰れそうな痛みに、夜光はただ縋るように、葵の匕首を握る指に力をこめた。
 こうなってみて、初めて分かった。誰かの真心を弄び、喰いものにすることの恐ろしい罪深さ。葵に出逢い、心惹かれ、突き放されたことで自分の抱く想いの深さを知り、それ故にようやく自分のやってきたことの意味を理解した。
「私は、馬鹿だ……」
 首から掛けた数珠が、ひやりとした感触を首筋に伝えてくる。既に三つの大珠が罅割れて白く濁った水晶の連なりが、着物の下で、ちりり、と幽かな音を奏でた。

 人間、という種族そのものへの恐れと嫌悪感を刻みつけられた夜光にとって、己の身体に人の血が流れていることは「穢れ」に他ならなかった。それを棄てて妖として生まれ変わることは、「人間の血」という負債の清算であり、穢れの浄化だった。
 そしてまた、半妖であることに振り回されてきた自分が、己の意思で「妖」という種として生きることを選択することは、強いられた運命と理不尽のすべてに対する復讐でもあった。
 かつて自分に生き地獄を強いた人間達を恨み、憎く思うことは、きっと死ぬまで……いや、死んでも止められない。
 今でこそ幽閉されていた頃の記憶はおぼろげだが、それは夜光を解放したわけではなく、日常的にまっとうに生きていくために、不要なものを本能が封じ込んだにすぎない。だからそれらは、ふとした綻びの隙をついて恐ろしい悪夢となり、繰り返し甦って夜光を苦しめる。
 人間達ばかりでなく、流行病で死んだという人間の母も、行方知れずになったという妖の父も、どちらのことも恨めしかった。
 なぜ守れもしないくせに、自分を生んだ。こんなことなら、いっそ生まれたくなかった。人にも妖にもなれず、無力なままで放り出された自分がどんな思いをして生きてきたか、おまえ達は知っているのか──おぞましい過去の悪夢にうなされて目覚めた夜、何度そう思って泣いたことか知れない。
『人の血を恨み、妖であることを疎みながら、尚妖になりたいと申すか。面白い。そなたの望み、わらわが叶えてやろう』
 あの夜。願いを口にした夜光に、天女がそう紅い唇で告げた贄の条件は、十の心と契りと命。
 誰かを特別に愛するという感情も、夜光には理解できなかった。半妖という半端者で、人からも妖からも隔てのある自分には、きっと誰のことも愛せない。しかも幼い頃に受けた仕打ちのうちに、夜光の心はどこかいびつに凍てついてしまった。そのおかげで嘘は巧くなったけれど、そんな夜光には贄の第一の条件に「心」があることの意味も分からなかった。
 十の命を捧げれば、何ものにも支配されず強いられない己自身の「生」を手にできる。それこそ穢れた自分が選ぶには相応しい、これ以上にない運命への復讐となるだろう。
 騙されて殺されるのは惨いことではあろうが、甘い夢に溺れて苦しむこともないのなら、まだましというものだ。かつて自分が強いられた地獄の日々に比べれば、ずっと。
 ──そうしてあの夜、天女の手で首にかけられた冥魂珠を、夜光は受け入れた。

「今さらだ……」
 自嘲しながら、涙が出る。
 そう、今さらだ。もう取り返しのつかない今になって、自ら捧げた贄の残酷さを理解するなんて。
 当たり前だ、葵があんな目で夜光を見たのは。真心を誑かして喰いものにし、あまつさえその命を平然と奪ってきた夜光は、身勝手でおぞましい化け物でしかないのだから。
 頭では分かっていても、あんな目で葵に見られ、疑いの言葉を投げられることは、生身を切られるよりもつらいことだった。そして葵を繋ぎとめておけないと知ったとき、夜光の中に潜む醜い魔性が、一気に姿を覗かせた。
 ……けれど結局、夜光は葵の命を奪えなかった。強く抵抗する葵の命の脈動や、苦しげな表情や息遣いが、夜光を少しずつ正気に引き戻した。
 葵はあれほど酷い目に遭わされておきながら、夜光に対する罵りも恨み言も口にしなかった。苦しい呼吸の下から葵が言ったのは、「好きにすればいい」と、ただそれだけ。
 そんな葵に、夜光はとうとう最後は動けなくなった。
「おまえさまは、本当に……おまえさまらしい」
 匕首を胸に抱いたまま、僅かに泣き笑いした。あんなときでさえ、葵はどこまでも、夜光が愛しいと思った葵のままだった。
 目を閉じて匕首に頬を寄せながら、深く息をつく。
「私はもう、二度と会わないよ……葵」
 結局命は奪わなかったとはいえ、葵をあれほどの目に遭わせてしまったのだ。夜光の正体を知られ、優しく穏やかな関係は失われてしまった。
 まして夜光は、冥魂珠という恐ろしい呪具に縛られている。誰かを特別に愛することも、愛されることもできない、呪われた身の上だ。そんな自分が、この上葵のそばに居られようはずもない。
 本当は葵に会いたい。そばにいたい。また笑いかけてほしい。──だからこそ、もう葵に会ってはいけない。
 想えば想うほど、胸を引き裂かれるようだった。支離滅裂に入り乱れる感情に、夜光は砂浜にうずくまった。
 これは夜光自身が招いてしまったことだ。葵との関係を壊してしまったのは、夜光自身だ。
 込み上げる想いをすべて吐き出すように、もう抑えることもせずにむせび泣いた。
 西の空と海が紅く染まるのと引き替えに、背後から頭上にかけての空が、次第に群青に覆われてゆく。それと共に夕凪が涼しい風を招き、夜光の乱れた肩までの髪を柔らかく散らした。
 喉も嗄れるほど泣いて泣いて。これからどうすれば良いのかと、ようやく頭が緩慢に巡り始めた。
「……出よう……」
 この、終の涯を。
 葵は蓬莱に戻ることはできない。かといって只人である以上、他の異界で生きてゆくことも難しいだろう。
 それならば、夜光が終の涯から出て行こう。この終の涯も長のことも心から大切に思うが、葵の無事には代えられない。夜光とて何のあてもなかったが、長に角と妖力を解放してもらえば、葵よりは他に行っても生きていけるはずだった。
 そして冥魂珠に囚われている限り、夜光は永遠に孤独だ。それも良いのかもしれない。自分のやったことを思うと、長の庇護や終の涯から我が身を引き離し、命ついえるまで孤独のまま彷徨うことも、自分には相応しいのかもしれない。
 夜光はゆるゆると腕を動かし、懐の中に元通り葵の匕首を収めた。その感触を確かめるように、着物の上から両の掌で押さえる。
「……これだけは、持っていかせておくれ」
 預かってほしい、と託されたものだったが、他の何がなくても、これだけは手放したくなかった。夜光がこれを持っていくことで、葵から死の影が遠ざかればいいとも思った。
 瞬くと、眩しい夕焼けに染まる視界を、滲む涙がぼやけさせた。真っ直ぐな水平線の彼方に沈んでゆく日輪が、神々しいばかりに美しい。
 最玉楼に戻ったら、すぐにでも終の涯を出て行こう。美しく愛しい終の涯で見る日没の、おそらくこれが見納めになる。
 夜光は涙をこらえながら、その荘厳ですらある光景を焼き付けるように見つめていた。


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