cats and dogs

‐original BL novels‐



二章 月の魔性 (六)

   § : 「妖は宵闇に夢を見つ」
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 夕闇が終の涯の上に舞い降り、赤い櫓門を越えた先に広がる歓楽街を、ひときわ華のある賑わいに満たしてゆく。
 あらゆる軒先に色とりどりの吊燈籠や提灯がずらりと灯り、出店や屋台も増える。妖の習性として、昼間よりも日が落ちてからの方が活発になるから、大通りから裏通りまで、路を行き交う姿も日中よりぐんと増えた。
 夜のとばりが覆い尽くしてゆく中、街角という街角に灯る明かりに照らされ、街全体がぼうと朱金に浮かび上がる。酔いに任せて本性をあらわした妖達が、飲めや歌えと心のままに戯れて通りを練り歩く。いずことも知れぬ窓辺から、様々な楽の音や調子の良いお囃子がこぼれ、灯火の明るさの分だけ暗さを増す路地の物陰には、いかにも妖しげな影が揺らめく。
 そんな陽気で雑多で、少々いかがわしげな喧噪に賑わう夜──それは昼間の穏やかで麗らかな風景とはまた違った、もう一つの終の涯の顔でもあった。

 夜の街の賑わいも、幾層も重なる最玉楼の高みにまでは届かない。
 蒼い月がゆっくりと昇る中、楼閣内のさして大きくもない一室で、夜光は一人身なりを整えていた。
 控えの間は、せいぜい三畳程度の広さ。着物の掛かった衣桁があると余計に狭く感じられるが、続き間には衣装部屋もあり、個人の控えの間を持っているのは最玉楼の中でも特別に格式の高い「花」だけだった。
 皓月のもたらす青白さが丸窓の障子を透かし、もとより夜目のきく視界を、とくに灯かりを入れずとも困らないほど照らしている。
 夜光は湯浴みをしたばかりの素肌の上に、少しひやりとする白い長襦袢を羽織った。
 背縫いの位置を合わせ、襟を重ね、腰紐を巻き、その上から小袖を纏う。淡い藤色の小袖は裾にゆくほど鮮やかに濃い色合いとなり、金銀の箔で縁取られた藤と桜の柄が華やかに絡み合っている。
 襦袢と同じように前身頃を寄せて重ね、普段はきっちりと寄せる後ろの襟を開けて衣紋を抜いた。腰紐を巻き、帯を締める。
 鏡台の前に腰を下ろすと、目許にほんのりと化粧を刷き、唇に淡い紅を塗った。ごく薄い化粧だが、相手好みに己を引き立てる術は熟知している。それだけで驚くほど、優婉な色香が増した。
 鏡台の上には、着物を纏うのに差し支えてそこに置いておいた、水晶の数珠と葵の匕首があった。細い指が数珠を取り上げ首からかけると、障子を透かす月明かりが透明な珠に反射した。
 その昔、とある天女の手で首にかけられてから、これを夜光はほとんど肌身離さず身につけている。連なる珠の数は、数えて百と十。小さな珠が十連なるごとに、それより大きな珠が一粒差し挟まれている。その大きな珠のうちの二粒が、無数の細かいひびを含んで白く濁っていた。
 自らの胸元で煌めく数珠を、鏡越しにじっと見つめる。
「……切り替えよう」
 誰にともなく、呟いた。白い指が、冷たく煌めく珠の連なりを握り締めた。
 自分は最玉楼の花。人の血と妖の血を併せ持ち、呪わしい人の身を捨て完全な妖の身を得るために、遠い昔に願を立てた。願を叶えるために必要なものは、十の心と契りと命。それを摘むために心を棄て、この美しい楼閣でひとを惑わせる花となった。
「……切り替えよう」
 冷えた珠の連なりを握り締め、胸に当てて目を伏せる。
 色鮮やかな衣を纏い、化粧を刷き、揺らめく紙燭の明かりの中で微笑むとき、自分は「最玉楼の夜光」という生き物に変わる。それは今まで、数え切れぬほど何度も繰り返してきたこと。何ら特別なこともない、それが自分の本来の日常だ。
 ──それなのに何故今、こうまでこの部屋の空気は冷たい。何故これほど、握り締めた数珠が冷たい。
「……葵……」
 うつむいた喉から、声が零れた。
 人を捨て妖になる、という願いは譲れない。幼い日に刻みつけられた人間という存在への嫌悪感は、どうしても拭うことができない。自分の身体から、呪わしい人間の性を残らず捨て去ってしまうこと。それが叶わなければ、自分は一生呪われ穢れた存在であるような気がする。
 そう思う傍らで、葵のことが脳裏から離れなかった。葵もまた人間であるはずなのに、なぜか憎らしく思えない。それはあの、マレビトにしては随分と明るめの青みがかった瞳のせいだろうか。それとも、人間よりも妖の方に近いような、美事な夕凪の空に似た色の髪のせいだろうか。葵の笑顔を、声を思い出すと、胸が締め付けられるようだった。
 ……葵は、どう思ったのだろう。夜光が「花」と呼ばれる存在であることを知って。葵は物事にあまり頓着しないように見えて、意外なほど鋭い。物事の本質を見抜き、それを繊細に読み解く力がある。
 いずれ知られるのは時間の問題だ、とは思っていた。いつまでも穏やかで暖かな、春陽に守られるような日々を送れるわけもない、とも分かっていた。
 だが実際に葵に知られ、こうして夜光本来の日常に引き戻された今、胸がひどく切なく痛む。
 夜光の身の上を察しただろうあのとき、葵は何も言わず、ただいつものように笑っていた。あのとき夜光は安堵もしていたが、どこか哀しくもあった。
 ──自分は葵に、嘆いてほしかったのだろうか。叱ってほしかったのだろうか。なぜそんなことをしているのかと、咎めてほしかったのだろうか。
 そうされていればいたで、事情も知らずに勝手なことを、と夜光も反発したに違いない。
 だがあそこで、互いに素のままの感情をぶつけあっていれば。それはまた、違う未来に二人を導いたのではないだろうか。
「……詮も無い」
 思い詰めるほどに、くつりと自嘲がこぼれた。
 自分は、葵に何を期待していたのだろう。葵は夜光の何というわけでもない。ただ危ういところを救い、しきたりに従って世話をしたまでの相手だ。そして葵は、人間だ。人間にしては随分まともだ、とは思うが、所詮は人間だ。
 人間に夜光の気持ちなど分かるわけがない。夜光がどういった存在であるかなど、分かるわけがない。
 自分に強く言い聞かせ、ふと持ち上げた目が、鏡台に置かれた綾錦の袋──葵の匕首にとまった。
 ──これを。おまえに預かっていてほしい。
 真っ直ぐに夜光を見て、それを差し出した葵を思い出した。あのとき、まるで葵の心と命を預かったような気がした。
 無意識に指を伸ばし、匕首を胸に抱き締めていた。
 なぜだか、涙がこぼれそうになる。なぜ自分はこんなに哀しいのだろうか。分からない。ただ、匕首を抱き込みながら強く思った。
 自分の秘密を葵に知られてはいけない。十の心と契りと命を贄とする、この恐ろしい秘密。迷いながら成し遂げられるほど、それは容易なことではない。
 だが無垢な人間である葵の前では、どうか「ただの夜光」でいたい。最玉楼の花でもなく、魔性を棲まわせた穢れた半妖でもなく。それ以上のことは望まない。だからどうか、このままで。
 ──客が訪れたことを知らせる鈴が、部屋の片隅で、りん、と音を響かせた。

「……ようこそいらっしゃいました」
 藤色の小袖に身を包んだ夜光が、畳に指先をぴたりと揃えて頭を垂れた。
 部屋の中には紙燭の他に、流麗な模様入りの和紙を巡らせた行燈が置かれている。仄かに香炉が焚かれ、花鳥風月を描いた美事な水墨画の屏風が襖の前に立てられていた。
 最玉楼の外観には朱塗りの柱や高欄が絢爛と巡らされているが、座敷の多くは豪奢でこそあれ、露骨に華美にはならぬようしつらえられている。この一室もそういった部屋のひとつで、頑強な造りの梁や柱は風情ある飴色に変じ、最玉楼の経てきた長い歳月を物語っていた。
「先日は、大変失礼致しました。貴彬様」
 正座をした姿勢を崩さず、真っ直ぐに面を上げて微笑んだ夜光に、用意された席で脇息に凭れていた貴彬が黒い瞳を向けた。部屋に入るなり始めていたのか、その手には既に淡青うすあお白磁の盃がある。
「本当にな。まさかあんなところで出会うとも思わなかったが」
「見苦しいところをお見せしてしまいました……どうか、平にご容赦を。度重なるご無礼にも関わらず、またこうしてお運び下さいましたこと、夜光は嬉しゅうございます」
 夜光が微笑み、瞬くたびに、優美な弧を描く白い睫毛に淡く光が踊る。頬にかかる癖のない乳白色の髪がさらさらと流れ、行燈の暖かみのある灯を、さながら雪明かりのように反射する。
 貴彬はそれをまるで睨むように見ると、ふいと顔を背けた。
「それはもう良い」
 突き出された盃に、夜光はその場でもう一度指先を揃えてお辞儀をしてから、貴彬の傍らに移動した。夜光の白い手が錫の銚子を持ち上げ、貴彬の盃に丁寧に薫り高い酒を注ぐ。
「あの葵という男は、いったい何者だ」
 不機嫌な様子を隠しもせず、盃を口に運びながら貴彬が問うた。
「はい。ひと月ばかり前に、虚ノ浜に流れ着きましたマレビトです。瀕死の状態でございましたので捨て置くわけにもいかず、最玉楼に客分としてお迎えいたしました」
「ならば、何もおまえが手ずから世話をする必要などあるまい。下働きの婢女はしためではあるまいに」
「私の一存でお連れしたものですから、他の者に預けてしまうのもはばかられたのです。ですがそのために長く座敷を空け、貴彬様に不愉快な思いをさせてしまいましたのは、私の不徳の致すところでございます」
 白い睫毛を伏せる夜光を貴彬はじっと見つめていたが、やがて「ふん」と逸らした。
「……まあ、行き倒れが相手ではな。おまえもそうそう見放せる性分ではなかろうが」
 低く呟いた貴彬に、夜光が夢見るような紫の瞳を微笑ませた。
「はい。……貴彬様もマレビトでございますゆえ。同じよしみと思いますと、つい捨て置くことができませんでした」
「口の上手いことを」
「滅相も無い。夜光の言葉に偽りのないことは、他ならぬ貴彬様こそがよくご存知であらせられますでしょう」
「おまえが口巧者なことも、よく知っている」
 突き放すように言った貴彬が、膳の上に盃を置く。その手の上にふわりと、泡雪のような軽さで、白く薄く柔らかな夜光の手がふれた。
 手に取った貴彬の掌を、夜光はそのまま白い指を絡ませるように押し包むと、目を伏せてそっと自らの胸元に引き寄せる。少しうつむいたことで、肩口で切り揃えた髪の合間から、細く白い首筋が垣間見えた。
「……口が信用ならぬと仰いますなら、どうぞ夜光の心にお訊ね下さいませ。その方がよほど確かでございましょう」
 乳白色の睫毛がけむるようにまたたき、夜光は潤んだ瞳を持ち上げた。貴彬が思わずのように、呼吸を飲む。それを見上げながら、夜光の淡い色の唇が囁いた。
「なぜ夜光も切なかったと、そう思っては下さらないのですか……私もずっと、貴彬様にお会いしとうございました。好きこのんで、座敷を空けたのではありませぬ」
「それは……」
「もう私に飽いてしまわれましたか。呆れておしまいですか。そうであるのなら、もうここでお捨て置き下さいませ。恨みは致しませぬ。すべては貴彬様のお優しさに甘えすぎてしまった、この夜光が愚かだったまでのこと」
 貴彬の骨張った手に名残を惜しむように頬を寄せ、言い切った夜光は、白い手を放した。一瞬離れたその手を、貴彬の手がつかみ留めた。
 衝かれたように動いた貴彬の手が、夜光を引き寄せる。あっさりと崩れてきた夜光の身体を、貴彬は両腕の中に強く閉じ込め、細い顎を仰向かせると唇を重ねた。
 夜光は人形のように抱かれるまま、だが強引に唇をこじあけてきた熱い舌に、自ら誘うように妖しく舌を絡ませてゆく。開かれた障子から静かな夜気の流れ込む室内に、舌と舌が絡み合う濡れた音と、次第に乱れてゆく息遣いが籠もった。
 深く激しい口付けが、息苦しさに堪えかねた頃にようやくほどかれる。
「貴彬様……」
 とろりとした眼差しで呼んだ夜光の顎を、また貴彬の指が少し乱暴に持ち上げた。酔い以上に熱い情欲に底光りする目で、貴彬が夜光を見つめる。乳白色の髪を梳きながら囁いた声は、しかしいっそ優しいほどだった。
「……今宵は寝かせてやらぬぞ。久方振りでつらいと言おうと聞いてやらん。俺をさんざん待たせた罰だ」
「はい……どうか、お心のままに」
 いっそう甘えるように身をすり寄せた夜光を貴彬は抱き締め、そして再び唇が重なった。


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