cats and dogs

‐original BL novels‐



二章 月の魔性 (一)

   § : 「妖は宵闇に夢を見つ」
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 不可思議な力に律された終の涯では、妖や神々が荒ぶるでもしない限りは、大きく天候が崩れることは無い。とはいえ冬には積もる程に雪が降るし、それ以外の季節であれば、しとしとと雨も降る。
 その日は朝から細い糸のような雨が降っていたが、昼前には上がり、雲間から薄陽が差し始めた。
 最玉楼の裏側にある静かな庭でも、優しい雨の名残が枝葉に露を宿らせている。雨上がりの何処か懐かしいような匂いと空気の中に、夜光と葵は立っていた。
 まだ完全には床から離れられない葵だが、今日は長い朱色の髪を乱れなくひとつに結い上げ、こざっぱりとした長着を身につけていた。
 二人の前には薪が積まれ、その上には葵が終の涯に流れ着いたときに身につけていたものが乗せられている。屈み込んだ葵が積み上げた薪に火を点けると、それらは薪の上で少しずつ炎に包まれ始めた。
「本当に、焼いてしまって良いのですか?」
 傷を庇いながら立ち上がる葵に手を貸し、燃えてゆく焚き火を共に見守りながら、夜光が問うた。
「構わない。残しておく方が未練がましい」
 言い切った葵の声音に迷いはなかったが、その目はじっと、明るい炎の中で燃え崩れて次第に形を失ってゆくものを見つめていた。葵の右手の中には、唯一それだけはよけておかれた、あの黒塗りの匕首があった。
 それを葵が持っていると、葵がいつかそれで自分の命を絶ってしまうのではないかと、それが夜光には少し恐かった。それを私に預けて下さい、と言いたい気持ちが喉元まで出掛かっていたが、すべてのものを失った葵が唯一つ握り締めているそれを、取り上げられるわけもなかった。
「大丈夫だ。おまえが案じているようなことはしない」
 そんなことを考えていたら、不意に葵が言った。夜光に巡らされた瞳が、薄陽を受けて柔らかく微笑んだ。こういうときは光に透けていっそう青みがかって見える、黒というよりも群青に近い色の、綺麗な瞳。
「どうした因果か、こんな場所でおまえに助けられた命だ。きっとまだ何か、俺にも生きる意味があるんだろう」
「……はい」
 葵がそう思ってくれるなら良い。今はまだ、そう思い込もうとしているだけでも。思い続けていれば、いつかそれが本当にもなろう。
 再び二人とも無言で、薪もろとも燃えてゆくものの火影を見つめた。そのうちまた不意に、葵が口を開いた。
「夜光。ひとつ頼みがある」
「何でしょう?」
 あらたまってなんだろう、と首を傾げると、葵が思わぬことを続けた。
「これから俺を呼ぶときには、葵とだけ呼んでくれないか」
「え……」
「おまえが礼節を尽くしてくれているのは分かる。だが俺はもう、殿だの様だのと仰々しく呼ばれるような身分じゃない」
「それは……」
 過去を切り離そうとする葵の思いも、分からないではなかった。しかし今までかしこまって呼んできたものを突然呼び捨てにしろと言われても、夜光も戸惑った。そもそも夜光には、昔なじみの火月や水月の他には、気易く呼び捨てるような相手などいない。
 そんな夜光に、葵は悪戯っぽい目を向けた。
「それに、俺は最初からおまえを呼び捨てにしている。俺だけ、というのは不公平だろう?」
「それは……客人としておもてなしするように、というしきたりでしたから」
「ありがたいしきたりだが、俺はそろそろ、おまえともう少し打ち解けたい」
 そんなことをあっさりと言われ、一拍を置いて、頬が熱を持った。自分でそんな自分の反応に驚き、当惑しながら、夜光は慌ててうつむいて顔を隠す。
「な……何を急におかしなことを仰います」
「おかしいか? 今のままも悪くないが、俺はもっとおまえと気易い仲になれたらいいと思っている」
 葵は悪びれた様子も無い。以前までの葵よりも表情や空気がどことなく軽く、それはそれで喜ばしいことではあったが、夜光はどう対処して良いのか分からなくなってしまった。
 葵の飾らない物言いを好ましく思ってはいたし、その素直な性分をからかっているときは楽しかったが、こういう形でそれが自分に向かってくると、なんとも気恥ずかしい。これが「仕事」であればいくらでもあしらえるのに、「ただの夜光」であることを求められると、自分の言葉で喋り心を見せることが怖い気さえする。
 対応に困って葵をちらりと見ると、目が合うなり葵はにこりと笑った。それを見て、どき、と心の臓が音を立てた。
 また慌てて顔を逸らし、わざと突き放すように言う。
「わ……私にそんなことを言う物好きは、これまでいませんでしたから」
「それは勿体ない話だな。おまえと親しくなれたら、さぞ楽しいだろうに」
「…………」
 かわそうと思っても、葵には本当に他意は無いことが伝わってくるだけに、どうにも具合が悪い。
 仕方なしに、ふう、と夜光は溜め息をついた。
「……分かりました。それでは、この次からはそういたします」
「おぉ、そうか。良かった」
 顔を逸らしたまま答えたが、その弾んだ声だけで、葵がどんな顔をしているのか分かってしまう。気恥ずかしいまま顔を背けていたが、じっと向けられる視線を感じる。何をそんなに見ているのか、と思い始めた頃、葵がけろりと言った。
「……で? 今呼んではくれないのか?」
「よっ……呼びません。この次からは、と言ったでしょう」
 何を言い出すのかと、夜光は思わず葵をにらんだ。ははは、と葵が明るい笑い声を立てた。
「それは残念。じゃあ、次からの楽しみにそれは取っておくとするか」
「そんなことを楽しみになさいますな。かえって呼びにくくなります」
 ついと顔を背けて言い、夜光はまた溜め息をついた。
 葵といると、本当に外面そとづらをうまく取り繕えない。自分は今までずっと「最玉楼の夜光」であって、「ただの夜光」であったことなど無かったのに。
 何か調子がおかしい、と思うが、不思議と居心地は悪くない。何より困るのは、こういう葵が自分は決して嫌いではない、と分かってしまうことだ。むしろ「仕事」として自分を取り繕わなくても良いことは、かつてないほど夜光の肩も軽くする。知らず知らず、葵の素直さにつられてしまう自分もいる。
 そう思うと共に、胸の奥がふいに鈍く痛んだ。
 ──いつまでもこの時間が続くわけではない。葵の傷が癒えれば、自分は勤めに戻らねばならないのだ。
 それは「最玉楼の花」として日々を送る、夜光の本来の日常に戻るということだった。
 自分の本来の勤めを、夜光は葵に言ったことが無い。葵もここは妓楼だと知ってはいても、夜光が「花」と呼ばれる存在であることまでは知らないだろう。
 自分の勤めに誇りを持ちこそすれ、負い目に思ったことなどはない。妖達はその性分として、美しく優れたものや道楽としての色事を好む。ゆえに妖の世界では特に、様々な技藝に優れた者、閨での術に秀でた者は重宝され、尊いものとして扱われるのが常だ。
 だがそうであっても、自分が他人と肌を重ねることを生業とすることを、葵になぜか知られたくなかった。到底隠しおおせることではなくても、どうせ知られてしまうときまでは。このささやかで穏やかな日々が終わり、また「最玉楼の夜光」に戻るときまでは。
 ──何より、自分の持つ「秘密」は、決して知られてはならない。
 鋭く胸の奥を貫くような、痛みと疼きを覚えた。無意識に手が持ち上がり、着物の前合わせを押さえた。その下にひっそりと掛けた、水晶の数珠を。
 ……この秘密は、葵には知られてはならない。知られたくない。こんな自分に、何ら分け隔てすることなく笑いかけてくれる葵には。自分の中の魔性を、無垢な人間である葵に、決して知られてはならない。
 知らず視線をうつむけ、ひとり考え込んでいるうちに、気が付けば焚き火にくべたものはほとんど燃え尽きていた。
 目線を上げると、灰色の雲がだいぶ流れて青空が見えている。隣に立つ葵の朱色の髪が風になびき、陽光を受けて明るい色を散らした。
「夜光」
 炎の中に崩れてゆく異界の名残りを見届けた葵が、夜光に向き直った。その腕が、夜光に握った匕首を差し出す。
「これを。おまえに預かっていてほしい」
「私に……ですか?」
 夜光は軽く驚き、葵と綾錦の袋に包まれた匕首とを見比べた。
 その様子を真っ直ぐに瞳に映しながら、葵は頷いた。
「俺が持っていると、何かの拍子によからぬことに用いてしまいそうな気がして、正直そら恐ろしい。さりとて、それをどこぞへしまい込むのも気が進まん」
 その正直な言葉に、夜光は小さく息を飲んだ。それを見た葵の瞳がやわらぎ、静かに続けた。
「おまえの手元にあるなら、俺も安心できる」
 その眼差しと言葉に、夜光は自然に、差し出された匕首を受け取っていた。手渡された匕首を、白い指がゆるく握る。
「葵殿……」
「葵と呼んでくれ、と言っただろう」
 軽口めかして葵が言う。完全に匕首が夜光の手に渡り、からになった己の掌を葵は見下ろすと、ぎゅっと指を握り込んだ。微風に鳴る木の葉ずれの音が、清流のさやぎのように耳朶を洗った。
「頼んだ」
 告げられた言葉に、夜光は両手で匕首を胸に抱き、静かに頷いた。
「確かに。おまえさまの命の片割れを、大切にお預かり致します」
 夜光の中にある不安を、葵は多少なりとも払拭してくれようとしたのか。それとも、純粋に夜光に預けようと思っただけなのか。それは分からない。
 だが、これは葵の命に繋がるもの。葵の心そのものだ。
 それを預けると差し出してくれたことに、匕首を抱いた胸が熱くなった。ますます強く握り締めると、匕首は本来の重さ以上にずしりと、何より尊いもののように感じられた。
「うん。ありがとう」
 木漏れ日の下で、葵が安心したように頬を崩した。その眼差しに、夜光はなぜか少し泣きたいほど、胸が詰まった。
 その先はどちらからともなく口を閉ざし、勢いの衰えた焚き火を、肩を並べてじっと見下ろした。
 やがて炎は燻りに変わってゆき、立ち昇る煙が空高くたなびいた。
 それはまるで、野辺送りの煙のようだった。


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