cats and dogs

‐original BL novels‐



一週間後に咲く花へ (6) -完結-

   § : L.D.02 「一週間後に咲く花へ」
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 さっきのキスのように、胸に鋭い痛みが走ることはなかった。
 しくしくと沁みるような切なさは胸の奥に相変わらず沈んでいたけれど、今はそれよりも、ふれあう唇と、頬と頭の熱さがまさっていた。
「ん……け、いき、さん……」
 慧生の身体にふれたくて、もっともっと近付きたくて、ぎこちなく彼に指を伸ばす。包帯でうまく動かせない手で、きゅうとしがみつく。
 自分を包んでくれる慧生の身体や熱に、もっと強くふれたい。
 一度自制心が緩んだらもう止まらず、アゲハは慧生の唇に、自分からもついばむように唇を合わせていた。優しい力で引き寄せてくれる慧生の仕種に、他に何もいらないと思えるほど、胸がいっぱいになった。
 美玲羽と別れるといっても、慧生が自分のものになったわけではない。彼は自分のものではない。頭ではわかっていても、慧生にふれられただけで、そんなものはいとも簡単に消し飛んでゆく。
「……けいきさん。すき、です……好き」
 繰り返し重ねるだけのキスの合間に、アゲハは夢見心地に呟いていた。彼を好きだと言えること、美玲羽のことを気にして感情を押し殺さなくても良いのだということが、滾々と湧き上がるように嬉しかった。
 ふと、慧生の大きな掌がアゲハの後頭部を支え、その腕がアゲハを抱き込んだ。
 慧生の体温がいっそう身体を包み、アゲハはぴくんと背を震わせた。あの夜にもキスしてくれた甘い唇が、今までよりも積極的に唇をなぞってくる。アゲハの色の淡いあどけない唇が、花びらのような吐息を零す。
 その隙間から、とろけそうに熱い舌が、小さな口の中に忍び込んできた。
「っ………ん」
 アゲハは身を竦ませた。慧生の仕種はどこまでも柔らかく、けれどふれてくる感触はひどく熱かった。
 少しずつアゲハの強張りがほどけ、柔らかな唇が彼に応える動きを見せ始める。小さな口の中へ、歯茎や歯列で遊んでから、舌に舌が絡んでくる。
 アゲハがふるりとまた震えて、慧生のシャツをますます握り締めた。
 慧生の手がアゲハの後頭部を支えて、さらさらと虹を帯びる白銀の髪が流れた。柔らかな髪に指を絡ませるように撫でるうち、いつしか互いの唇は深く重なり合っていた。
 ​​​──これは『本当』のこと?
 アゲハの鼓動は、破裂しそうに高鳴っていた。すっかり頭に血が昇って、世界が夢のように浮き上がって、くるくる回っているみたいだった。
 密着した慧生の身体と体温が、自分をすっぽりと包み込んでくれている。濡れた粘膜同士のふれあいがぞくぞくするほど気持ちが良くて、直接に鼓膜に響く舌の絡み合う湿った音に、爪先にまで抗い難い震えが走る。
 慧生の心の奥なんて少しも分からないけれど、彼は軽薄な人ではないことだけは分かっている。少なくとも、美玲羽を切り離すと決めたことを告げ、それからアゲハにふれても良いかと訊ねてくれた。
 ​​​──僕が慧生さんの特別じゃなくても、今はそれだけでいい。
 自分でもよく分からないうちに、閉じた瞼の下に涙が滲んだ。怪我をした手には痛みもあって、あまり力を入れることができなかった。それでも可能な限りに、慧生にしがみついた。
「ん、……はふ……けほっ」
 時間をかけて施された、甘く熱いキスがほどけると、アゲハは大きく息を吸い込んだ。急に入り込んできた空気に、少しむせてしまう。
 きちんと呼吸をしているのに、酸欠を起こしてしまいそうだった。全身がくにゃりとしてしまって、ぜんぜん力が入らない。ただ指先までもが、血管から燃え上がっているように熱かった。
 その髪を、また慧生が撫でてくれた。見上げると、翡翠の瞳は今までに見たことがないほど優しくなごんで、そして目許が少し熱を帯びているように見えた。
「おまえは、本当に可愛いな」
 キスだけで夢見心地にくたりとしてしまっているアゲハに、慧生はまた繰り返した。
「慧生さん……」
 白い瞼を瞬かせると、長い白銀の睫毛に、雪の結晶が散るように涙の粒が煌いた。深く透明な紅い瞳が、熱を帯びてひたむきに、目の前にいる慧生ただ一人を見つめた。
 ​​​──あなたにとって、僕は何ですか。可愛いとはどういう意味ですか。僕にふれてくれるのは何故ですか?
 それらの問いかけは口にせず、アゲハは慧生の広い胸元に頬を寄せて、服を握る手にきゅうと力を込めた。傷口から走る痛みに甘い疼きを感じながら。
「好きです、慧生さん……」
 囁いたアゲハの唇に、慧生の唇がそっとふれ、それから頬へ、耳元へ伝った。アゲハは火にでもふれられたように、またびくっと身を強張らせ、思わずきつく目を閉じた。
「あっ……」
 耳にかかっていた髪をよけて、慧生の唇がそこにふれてくる。暖かな吐息と、耳朶から耳の縁をなぞる柔らかな感触に、アゲハはびっくりして目を丸くした。
 キスだけかと思ったのに、そうではなかったのだろうか。ぎゅうっと身を硬くして、思わず上がってしまう声に口元を押さえた。
「あ、……んっ……け、けいき、さ……」
 慧生のしなやかで大きな手がアゲハの細い肩を押さえ、小刻みに震えているその耳元から白い首筋へと、焦ることなく唇をなぞらせてゆく。繊細な地肌を彼の吐息と唇がなぞって、芯からぞくぞくと震え上がってしまう。
 ほんのささいな刺激にも声が零れてしまいそうで、アゲハは懸命に口を手で押さえて声を噛み殺した。
 恥ずかしい。それに、慧生さんはこんな声を出してしまうのははしたないと思うかもしれない。
「けっ、慧生さん……?」
 ときどきと嵐のように胸が高鳴って、全身がひどく熱かった。理性がだんだん押しやられるようにわけがわからなくなってきたアゲハは、かろうじで慧生の名を呼び、潤みきった紅い瞳を上げた。
「おまえにさわってみたい。駄目かな」
 吐息もふれそうな間近から、慧生が囁いた。その声は普段の淡白な彼の声音と違い、静かなのだけれど何処かしっとりとして、やわらかな熱をはらんでいた。
「……っ……」
 ​​​──ずるい。こんなの、嫌だなんて言えるわけがない。
 だってアゲハも、本当は彼にふれてほしくて仕方がないのに。このマンションに来て、ケースの中で目覚めて、初めて彼にふれたときから、彼の指や唇が自分にふれてくれるのを待ち望んでいたのに。
 真っ赤になったアゲハは、うつむいてふるふると、小さく首を振った。特別じゃなくていい、大事にしてくれるだけでいいと思ったのに、思ったそばからこんなふうに言われてしまったら、簡単に心の防波堤が崩れてゆく。彼ただ一人に向かう、どうしようもない本音が暴き出されてゆく。
 けれどとても言葉に出して答えることはできず、喉を震わせたら、じわりと涙が滲んだ。その瞼に慧生がキスをして、涙を拭ってくれた。
 耳元や頬にキスをしながら、慧生はさっき留めたアゲハのパジャマのボタンを、上からふたつまで外した。パジャマをはだけながら、その白く細い首筋からくっきりと頼りなげなラインを描いている鎖骨の上へと、柔らかな口付けを辿らせてゆく。
「ふぁ」
 するりと慧生の手がパジャマの裾からもぐりこみ、脇腹を撫でたとき、アゲハは変な声を上げてびくっとしてしまった。
 胸が壊れるのではないかというほど早鐘を打ち、身体も頭の中も熱くて、恥ずかしくて仕方がない。とんでもなく思い切ったことを言ってしまったものの、自分がここまで動揺していることに動揺してしまって、アゲハはパジャマの前を押さえ込んでしまった。
 それを見て、慧生がアゲハの額髪を梳きながら問いかけた。
「やっぱり嫌なら、やめておく?」
 慧生の声音にも表情にも、どこかほんのりと、恥ずかしがるアゲハの反応を楽しむようなからかうような色があった。勿論その眼差しも仕種も、アゲハを愛でるように柔らかいの変わらない。嫌だと言えば無理強いはしないだろうことが、優しい指先から伝わってくる。
 恥ずかしくてたまらなかったが、アゲハはきゅっと下唇を噛んだまま、パジャマを押さえ込んでしまっていた手から力を抜いた。慧生がくすりと笑い、アゲハの額に軽いキスをくれた。
「良い子だ」
 笑みを含んでいながら、その声はやはり優しかった。アゲハは首筋から胸元まで赤くなってしまいながら、とても目を開けていられなくて、小さく震えながら再び瞼を閉じた。
「あっ……」
 その喉元に、慧生の唇が押し付けられた。小柄な身体を引き寄せられて、ちょこんと彼の膝の上に座る格好になってしまったことで、余計にアゲハは心拍数が跳ね上がった。
 パジャマのボタンがさらに一つずつ外されて、緊張と心の昂ぶりのままにうっすらと汗ばんだアゲハの白い上半身が晒されていった。
「……っん、ぁ」
 敏感な首筋や鎖骨の上に口付けを与えられ、小刻みな呼吸にせわしなく薄い胸が上下する。次第にとろんとなりかけていたアゲハの目が、しかし驚いたように見開かれた。
「ふ、ぁっ……!」
 アゲハの真っ白い胸元で、花が開くように可愛らしく朱を強めて震えている突起に、慧生の唇がふれてきた。
 暖かな粘膜にそこを包み込まれ、濡れた感触がなぞってくると、アゲハの背筋を産毛が総毛立つようなざわめきが駆け上がった。もう片方の乳首にも、慧生の指先がくすぐるようにふれてくる。
 恐ろしいほど敏感になっているそこを左右同時にふれられて、アゲハは繰り返し駆け上がるざわめきに背中を反らした。
「あ、ッん…………っ、……」
 声が上がりそうになってしまって、アゲハはまた慌てて自分で口を押さえた。きつく目を瞑り、懸命に声を押し殺す。
 くすぐられたり捏ねられたり、やんわりと撫でられていたかと思うと、きゅっと強めに摘まれる。どんどん過敏になってゆく乳首は硬さを増して転がされ、思わずよじらせてしまう背を、慧生の大きな掌が支えた。支えるだけでなく、いつの間にかパジャマの下に掌が入り込んでいて、ゆっくりと背筋を撫でられる。
 胸を刺激されながら腰回りを愛撫されることに、アゲハは次第に堪え切れず、喉から細く甘い声を零した。全身がひどく熱くなって、ぞくぞくっと絶え間なく、くすぐったいような疼くような痺れが神経を走り回った。
 何よりも、血流が脈打つたびに、恐ろしいほどずくりと身体の中心が疼く。腰の中心がありえないほど熱を帯び、明らかに形を変えていることがズボンの上からでも分かってしまって、アゲハはまた恥ずかしさで泣きそうになった。
 知識では知っていたが、いざ初めて自分のそこがそういうふうな反応を示すと、なんだかひどくいたたまれなかった。悪いものではない、と頭では分かっていても、見知らぬ感覚が恐い。
 真っ赤になってぎゅっと目を瞑り、ぽろぽろと涙を零しているアゲハに、慧生は何か気付いたようだった。ふっとその目許が優しくなり、アゲハの瞼にキスをした。
「大丈夫だから」
 慧生の声が耳元に甘くなだめるように囁き、その唇が頬から唇を辿る。繰り返される柔らかな口付けに、アゲハは涙の止まらない瞳で、何度も喉を震わせた。
「……っ……!」
 腰回りを撫でていた慧生の手が、するりと身体の中心に降りてきて、アゲハはびくっとして思わずその手を遮ってしまった。
 慧生は焦らず、アゲハの白い小さな手を、やんわり握る。そうしながらアゲハの髪を撫で、その目許や頬に、ついばむようにキスを繰り返す。
 アゲハの呼吸が速く浅く繰り返され、やがて強張っていた白い指から、力が次第に抜けていった。
「……ッ、あ、ふぁ……っ」
 慧生の手が、すっかり熱くなってしまっている身体の中心に伝い降りてゆくと、アゲハがビクンと大きく反応した。真っ赤になった目尻に尽きることなく涙の粒がこぼれ、呼吸がさらに乱れる。
「あ、あッ……やっ……ん、っあ……!」
 ズボンの上からゆっくりとふくらみを撫で、たまに先端のあたりを指先で掻いてくる刺激に、アゲハはもう死ぬかと思うほど恥ずかしくて、それと同時に痺れるほど感じてしまった。羞恥心が燃え上がるほどに、股間はいっそうずくずくと充血して疼く。
 いつのまにか慧生の手がズボンの中に忍び込んで、火傷しそうに熱いアゲハ自身をまさぐった。
「やっ……あぁっ」
 そんな恥ずかしいところを、きゅっ、と確かめるように握り込まれて、アゲハの理性はそこで砕け散ってしまった。しかも恥ずかしい先走りをしとどに伝わせている熱いペニスを、優しく愛しむように彼の掌は押し包んで、緩めに上下に扱き始める。
「あ、あぅ、はっ……あ、ん……っ」
 いつの間にか全身を汗に濡らしながら、初めて味わう快楽に、アゲハは甘い声を上げていた。強弱を付けて愛撫される股間が、もうわけがわからないほど熱くて気持ちが良い。
 息が上がって呼吸が苦しく、けれど身体が極上の悦びに浮き上がりそうで、少し恐くて必死に慧生の首にしがみついた。華奢な白い身体が幾度も震え、腰がひくひくと引きつって、細い喉が喘ぐ。折れそうな手脚が震える。
「あぅ、あっ……き、もち、い……きもちい、の、……けい、き、さ……ッ……ふあ、あぁ、あッ」
 絶え絶えの息の下から、無我夢中でアゲハは口走った。慧生の手が自分のペニスを扱く、くちゅくちゅという淫らな音が耳を打つ。下半身が熱く痺れるような感覚がひときわ強まり、全身がひきつって叫びそうになった唇を、慧生の唇に塞がれた。
「ッん、ん……ん……ッ!」
 アゲハが爪を立てるほどに慧生の身体に強くしがみつき、激しく絶頂に向かって駆け上がる身体に痙攣した。その唇から上がる声は唇に塞がれて言葉にならず、その限界まで強張ったペニスの尖端から、熱く甘い快楽の証が迸った。
「あぅ……ふぁ…………」
 達してからしばらく経っても、アゲハの身体からは小さな痙攣がおさまらなかった。意識も朦朧としかかり、とろんと白い靄がかかったようで、熱く甘すぎた快楽の名残りに、アゲハは何も考えられなかった。
 その間に、慧生は吐き出されたアゲハの精をきれいに拭き取って、パジャマもきちんと直してくれた。びっしょりと汗に濡れているアゲハの額から、乱れて貼りついた白銀の髪をよけて唇を寄せる。
 慧生のその仕種に、アゲハがようやくかすんだ紅い瞳をゆっくりと開いた。
「…………あ……」
 生まれて初めて激しく達した全身がけだるくて、重い。まだ指先にまで、痺れたような火照りが残っていた。頭がふわふわするような眠気が襲ってくる。
「けいき、さ……」
 それでもなんとか腕を持ち上げて、目の前にいる自分の全世界そのものである人に、アゲハは抱きつこうとした。うまく動けないその身体を、やんわりと抱き締めてくれる感触があった。
 胸いっぱいに満たして広がる切なさと幸福感に、あふれるほどのそれが涙に変わって、アゲハの頬に零れ落ちた。
「けいきさん……けいき、さん……」
 髪を撫でてくれる感触が心地良くて、繰り返し誰よりも愛しいただ一人の名前を呼びながら、アゲハは穏やかな白い眠りに引き込まれていった。


 完全に眠りに落ちてしまった白い妖精じみた姿を腕に抱きながら、慧生は無意識のように、くしゃりと長めの前髪をかきあげた。かきあげたところで手が止まり、額を押さえるような格好で、深々と息を吐く。
「……まずいな、これは」
 くぅくぅと無防備に眠る白い少年に向けられる、困ったような、自分自身に困惑し戸惑ったような、けれどどうしようもなく可愛いものを見るような、複雑な翡翠色の眼差し。
 ん……と少年が身じろぎ、眠ったままもぞもぞと慧生に身をすりよせてきた。
 天使そのものの寝顔に、慧生は僅かに苦笑めいた顔になる。
 包帯だらけの小さな手を取り、包帯の上から、彼はその指にキスをした。
「ゆっくり、おやすみ」
 リビングの暖かな明かりの中、そっと囁かれた甘い声に、夢のような虹の色彩を持つ少年は、眠りながらほわりと淡く微笑んだ。


 アゲハはぐっすりと眠りこけ、目を覚ましたら引かれたカーテンの隙間から、爽やかな朝陽がリビングに差し込んでいた。
 なんだか頭がやけにぼーっとして、あれ?と首を傾げる。
 僕、ゆうべいつの間に寝ちゃったんだっけ……?
 ソファに起き上がったままぼんやりしていたら、かちりと廊下とリビングをつなぐ室内ドアが開く音がした。
 黒地のシャツと細身のスラックス姿の慧生が、今日も綺麗な佇まいを見せる。起き上がったアゲハに気付き、彼はいつものように朝の挨拶をしてきた。
「おはよう」
「あ……おはようござ……」
 います、と言いかけて、アゲハは声を飲んだ。
 昨夜の出来事が、電撃的に脳裏に甦る。慧生がとても優しくしてくれて、なんだか気が付いたらキスをされて抱き締められていて​​​──それから、それから……
「あっ……そのっ……ッ……!」
 しゅうう、と脳天から湯気が出るんじゃないかと思うほど真っ赤になり、アゲハは恥ずかしくてとても慧生と顔を合わせていられず、がばっと毛布の中にもぐりこんだ。
 ​​​──うわ、うわ、うわ。僕ゆうべあんなこと……なんであんなこと! ううん、慧生さんがぎゅっとしてくれて、キスしてくれたことはとても嬉しかったけどッ……慧生さんの唇、なんだかすごく甘くて、指先も……うっとりするくらい繊細で……ってだからそうじゃなくて!!
 もう慧生の顔を見れない。と言わんばかりに毛布にもぐりこんだまま顔を出さないアゲハに、慧生はしばし立ち尽くし、やがて小さく噴き出す声がした。
 彼の足音がキッチンの方に遠ざかり、それと共に声が投げられる。
「まあ、朝メシは適当に作るから。おまえはもう少し寝てろ」
「え!!」
 がばっとアゲハは飛び起きた。とんでもない、食事を作るのはアゲハの仕事だ。慧生にやらせておいて、いつまでもだらだらと寝てるなんて、そんなのダメだ。
「い、いけませんっ。僕がごはんは作ります! あのっ、すぐコーヒーを淹れますから、慧生さんはくつろいでてくださいっ」
 パジャマ姿のままでぱたぱたキッチンに駆け込むと、コーヒーメーカーに豆をセットしようとしていた慧生が振り返った。
 ​​​──ああ、朝の爽やかな空気の中で見る慧生さんも、やっぱり素敵だ。スレンダーで締まった身体に、暗い色の服がシャープさを際立たせているようで、でも明るい朝の光がふわりとそれをやわらげていて……って、違う!
 いつものように慧生にうっかりみとれかけてしまったアゲハは、ぷるぷると慌てて首を振り、慧生に歩み寄った。
「その先は僕がやりますから。それから、あの……寝坊してしまって、ごめんなさい」
 やっぱり彼を正視できず、数珠つなぎに昨夜の出来事を思い出してしまったアゲハはうつむいた。頬どころかうなじまで熱くなって、とても顔を上げられない。
 まさに穴があったら入りたい心境で立ち尽くしていたアゲハだったが、ふいに頭の上で慧生が笑い出す声がした。そんなに大きな声ではなかったけれど、基本的に表情の変化に乏しく、笑顔といっても微笑む程度しか見たことがない彼が声を立てて笑うところなんて、アゲハは想像もしたことがなかった。
 驚いて思わず見上げてしまった頭を、くしゃりと撫でられた。
「いいから。どのみちその手じゃ水も触れないだろう」
「で、でも」
 なお納得せずにいると、慧生の翡翠の瞳がアゲハを流し見て、すうと細められた。その眼差しにどきりと胸を射貫かれ、アゲハは硬直してしまった。
 薄く笑んだ慧生の人差し指の先が、それ以上の反論を封じるように、アゲハの唇にぷにっと軽く押し当てられた。
「マスターの命令は絶対。でしょ?」
「……………………はい」
 ​​​──昨日の今日で、こんなのはズルイ。
 と頭の中では猛烈に訴えつつも、慧生の流し目に一瞬で悩殺されてしまったアゲハには、反論なんてできるわけもなかった。
 すごすごとリビングに引き上げ、昨夜のうちに用意しておいた今日の服に着替え始める。
 そうするうちに、今さらながらさっき慧生の指先が触れた唇が、ほわりと熱をもってきた。
 小さな火がともったように熱いそこに、無意識に指先をふれさせる。
 昨日までの慧生は、頭を撫でてくれることはよくあったけれど、こんなふうに気軽にふれてくることはなかった。あんなふうに冗談半分に、笑いながら軽口めいたことを言うこともなかった。
 少しだけでも、慧生との距離が縮まったのだろうか。今すぐは無理でも、自分はいつか慧生の「特別」になれるのだろうか。少なくとも、可能性はゼロではないと思ってもいいのだろうか……。
 思ったら、急に元気が出て来た。思わずぎゅっと手を握ってしまって、まだ癒えていない傷の痛みに涙目になりかけたけれど、気持ちを入れ替えるようにてきぱきと着替えをすませ、枕と毛布を片付けた。
 この手では顔を洗えないので、ウェットティッシュで肌を拭うと、それでスッキリした。
 身支度を整えたところに、慧生がコーヒーとトーストとスクランブルエッグをトレイに乗せてリビングにやって来た。今日はこちらのテーブルで朝食をとる気分らしい。
「慧生さん」
 食事を始めてうやむやになってしまう前に、と、アゲハは慧生に呼びかけた。
「うん?」
 トレイをテーブルに置きながら見返った彼に、アゲハは心なしか背筋を伸ばし、ちょっと息を吸って、とびきりの笑顔を向けた。
 輝くようなありったけの想いをこめて、誰よりも愛しく大事な人へ、アゲハは真っ直ぐに告げた。
「慧生さん、ありがとうございます。好きです……あなたのことが、大好きです」


(了)


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