cats and dogs

‐original BL novels‐



-朔の章- 第三のパンドラ(4)

   § : 「cats and dogs」
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 自分の中の何かが、どうしようもないほどズレていく。
 現実感を日ごと喪失していくような、夢の中をふわふわと漂うような、なんとも頼りない感覚が、サクにつきまとい始めた。
 うまく思考と感情が働かず、頭もいつもぼんやりとしている。アリサに嬲り尽くされる間だけがクリアだった。
 熱にうかされたような感覚が常にあり、サクはそれをどうにもできず、ぼんやりとただ過ぎてゆく日々を眺めていた。


 その日その出来事がサクを見舞ったのは、ただの偶然だったのか、それともサクにとっては起こるべくして起こったことだったのか。

 相変わらずぼんやりしたままの頭で、いつもの通路をサクは歩いていた。
 アリサの言いつけ通り、毎日あいた時間にジムに向かう。廃都の中にあるとは思えないほど、そのビルの中に設けられたジムは設備が充実しており、驚くほどの人数が出入りしていた。このビルの住人達以外も、多く足を運んできている様子だった。
 ただいずれも、こんなビルに出入りしているようなのは、まっとうな筋の者達ではあるまい。
 こんな場所で「まっとう」という表現を自分が使ったことに、サクはおかしくなる。廃都にいる人間達が、そもそも一人残らずまっとうでなどあるものか。
 だが要するに、その中でさえ、特に危険だと思ってしまうような連中がいるということだ。それは身近なところでいえば、アリサであり、アリサに飼われる者達であり、このビルに出入りしているアリサの関係者達だった。
 アリサが何者であるかなんて、どうでもいい。ただその権力と金は、サクに重大な庇護を与え、この廃都で生きていくことを可能にしている。
 アリサのことに興味などなかったが、いつまでもこうしてその庇護の下に居たいとも思わなかったから、いずれは詳しく知っていく必要があった。あわよくばその一部だけでも奪い取り、アリサの下から飛び出すために。
 だからその時期が来るまでは、従順におとなしくあらねばならない。
 無表情に通路を歩いてゆくその先に、そのとき物陰からするりと現れた人影があった。
「おい」
 声をかけられて、立ち止まる。
 そこにいたのは、サクが最初にこのビルに連れて来られたときから見かけている、脱色しすぎたような金髪を短く刈り上げた少年だった。背格好は、サクと大差ない。年齢もおそらく大差ない。
「てめえ、いつまでここに居座る気だよ」
 金髪の少年は、唸るようないかにも獰猛な声で言い、サクを暗い眼差しで睨みつけている。
「さあ」
 サクは軽く首を傾けて答えた。見知った顔だが、どうでもよかった。
 そのまま歩き出そうとしたところを、金髪の少年が目を見開いて視線で追いかけてきた。
「てめえっ!」
 横を通り過ぎようとしたところを、いきなり掴みかかられて、そして強烈な殴打が頬にきた。身構える余裕もなかったサクは、よろめいて床に叩きつけられた。
「なめてんじゃねえぞ」
 金髪の少年は、目を爛々と輝かせてサクを見下ろしている。少年が近付いてきて、顔面を蹴りつけられた。そのまま肩といわず腕といわず胸といわず、踵で抉り込むような蹴りを何度も入れられる。サクは急所を守るように身を丸くしたが、その痛みにたまらず呻いた。
 息を切らすほどサクを蹴り続けた少年が、やっとそれを止めた。
「目障りなんだよてめえはッ!!」
 罵声があたりに響き渡った。
「てめえが来てからロクなことがねえ。うざってぇんだよ! さっさとこっから出ていけよ、クソがッ!!」
 ​​​──なるほど。筋道のかけらもない言い分だ。
 ひどく頭の奥が冷めたまま、サクは思わず喉の奥で笑った。
「なんだよ……くだらない」
 痛む身体を庇いながら起き上がり、サクは言った。
「……おまえさぁ、さてはあの変態女のお気に入りだったんだ? なのに俺が来てから、俺のせいで可愛がってもらえなくなっちゃったのか。みっともないな。喚いて殴るだけかよ。くっだらねえ」
 吐き捨てると、あっけにとられたようだった金髪の少年が、みるみるうちに形相を変えるのが見えた。顔を真っ赤にしてサクを睨みつける。図星だったようだ。
「んだと……」
「違うの? そうなんだろ? くっだらねーな。悔しかったら自力でなんとかしてみろよ。あの変態女の前に這いつくばって。俺をどうこうするよりさぁ!」
 床に座ったまま、こみ上げてくるままにサクは声を上げて笑った。金髪の少年がぶるぶると震え、大きく胸が上下した。見るからに興奮状態にあるその様子を、サクは冷めた目で眺めた。
「ッざけやがって……!」
 少年が後ろポケットからバタフライナイフを取り出すのが見えた。器用にくるくると柄を回転させて構える。どす黒い憎悪に染まったその顔には、間違いなく殺意があった。
 ナイフを振りかぶって襲い掛かってくるその姿を、サクは投げやりな気持ちで座ったまま動かずに眺め続けていた。
 何もかもくだらなかった。ここで死ぬのならそれもいいのかもしれない、と思った。頭のどこかが焼き切れてしまったように、何も感じなかった。
 避けようとしなかったサクの肩に、上から振りかぶられたナイフのブレードが、凄まじい衝撃と共に突き刺さった。
 瞬間、ぼやけていた脳髄に電撃が弾けるような、神経まで抉る激痛がサクの身体を貫いた。
「ッうあッ……あああッ!!」
 突き飛ばされるようにサクは転がった。刺された左肩を押さえ、あまりの痛みに転げまわった。どくどくとこめかみが脈打ち、激痛のあまり吐き気がこみあげた。
 どれほど深く抉られたのか分からない。見ると少年の手にしているナイフのブレードは、真っ赤に染まっていた。
 左肩を押さえるサク自身の右手も、そして左肩から上半身にかけても、あふれ出した血の色でたちまち染まってゆく。左半身がすうっと冷たくなる感じがした。痛みのあまり視界が揺れた。
 少年は血の色に酔った顔をしていた。人を刺したことはこれが最初ではない、というのが分かるようだった。もしかしたら、命を奪ったことさえあるのかもしれない。ここではそれをしても、咎められることもない。自分で自分のことを引き受けられさえすれば、どんなことでも許される。
 再びナイフを振りかぶって襲い掛かってくる少年を、サクは目を見開いて凝視していた。スローモーションのようにその姿が脳裏に焼きついた。
 死ぬ? 死ぬのか? こんなくだらないところで、こんなくだらないことで? 刺されどころが悪ければ、もがき苦しんでのたうちまわって、どれだけの痛みを味わうか知れない。なぜ自分なのだ? なぜ自分が、こんな目に遭わなければいけないのだ?
 ​​​──自分が何をした。
 押し殺した胸の奥を突き破って、猛烈に吹き上がったものがあった。すべてを支配するその激烈な衝動に、頭がショートした。
 自分がいったい何をした。こんなことのすべてが、なぜ自分でなければいけなかったのだ。なぜ。なぜ。なぜ。
「う……あああああああああぁぁッ!!」
 喉が張り裂けるほどの絶叫を迸らせていた。存在のすべてを賭けるようなその自らの叫びに衝き動かされ、サクは立ち上がって相手に突進していた。
 全身を爆発的にアドレナリンが駆け巡り、刺された左肩の痛みが消し飛んでいた。少年の右手にあるナイフの軌跡がくっきりと見え、それは恐怖の対象にはならなかった。
 少しは体力が落ちたとはいえ、鍛えられた身体による肩から抉り上げるような突進は、少年の胸部を一撃して簡単に吹き飛ばす。もろとも転がり、即座にサクは跳ね起きた。
 金属的な音が響いたのを、転がった瞬間に聞いていた。その方向に目をやるなり数歩の距離を走り出す。そこに転がっていたバタフライナイフの柄を握り、すぐに振り返って、まだ倒れている金髪の少年に向かって再び突進した。
 なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。
 なぜ自分だった。なぜ自分がこんな目に遭う。自分がいったい何をした。
 許せない。こんな世界のすべて。自分を犯そうとするもののすべて。もうたくさんだ。すべてをぶち壊してやろう。自分をこれ以上犯そうとするものは、何もかも​​​──粉々に砕けて、自分の前からすべて消え去るがいい!!
「あああああああああッ!!」
 絶叫と共に、まだ起き上がることもできていなかった少年の上に馬乗りになった。バタフライナイフを頭上高く掲げ、驚きと恐怖に目を見張った少年の姿をすべて焼き付けながら、瞬時に考える。
 どこだ。どこを刺せばいい。確実に反撃の力を奪えるところ。楽に引き裂けるところは。
 目を見開き両腕で構えたナイフを、狙い定めたその一点に向け、思い切り振り下ろした。恐怖の叫びに丸く開いていた、少年の口腔めがけて。
 思い切り振り下ろしたブレードが少年の口に押し入り、その歯を砕いて歯茎を切り裂きながら、その最も奥にある柔らかな喉の肉まで、一気に突き刺さった。
 ビクッと大きく一度身体が震えただけで、少年の表情はまだめまぐるしく動いていた。衝撃と恐怖と激痛とに凍りついた少年の目と、目が合った。
 サクは両手でバタフライナイフを握り締めたまま、その腕を大きく勢いをつけて真横に動かした。ナイフのブレードが少年の口内を削り、その弾力のある頬肉に内側から食い込む。
 肉の抵抗を感じ、サクは上半身すべてをひねるようにして、一気に振り抜いて引き裂いた。顔面を内側から切り裂かれた少年は、一拍遅れて絶叫した。
 サクはそれを振り返ると、血まみれの手で少年の顔面を掴んだ。顎を上向かせて、その首をぐいっとのぞかせる。ひくひくとひきつっているそこを凝視し、再び振りかぶったナイフを、全身の力を込めて突き下ろした。
 ブレードが皮膚を突き破り、肉を切り裂く鈍い抵抗と、そしてガキッと硬い骨に当たってこすれた感触がした。馬乗りになった下で、少年の身体がビクンビクンと激しく痙攣した。
 その首にめり込んだナイフを、思い切り引き抜いた。瞬間、ブレードが栓になっていたその傷口から、噴水のように真っ赤な血飛沫が吹き上がった。
 天井まで達して全身に叩き付けられてきたその人肌のぬくみを持つ飛沫に、咄嗟にサクは顔を庇うようにした。しかしそれは間に合わず、目の中に入った血で視界が真っ赤にぼやけた。濃密な血の匂いが自分を包み、くらくらと目眩がした。
 やっとそのぬるい飛沫がかかる感触がおさまり、サクは腕を下ろして少年を見下ろした。自分の呼吸が激しく乱れていることに、このときやっと気が付いた。
 ぱっくりと切り裂かれた少年の首には、白い骨と、真っ赤なてらてらとした肉の切断面と、何かの管のようなものがのぞき、あたりはまさに血の海になっていた。顔面を切り裂かれて真っ赤に染まった少年は、すでに事切れていた。
 返り血で真っ赤に染まった顔の中で、見開かれたサクの目が異様な輝きを放っている。少年の上に馬乗りになったまま、サクは呼吸が落ち着くまで、その切り裂かれた顔と首を見つめていた。
 やはり真っ赤に染まった自らの唇を、サクは舌を動かして舐め上げた。口の中にまで血飛沫は飛んでいた。鉄の味がするそれは、奇妙な甘みを持っているようにも感じられた。
 ……思い知れ。
 真っ赤に染まったその唇が、小さく、だがはっきりと、そう呟いた。


 ずくずくと左肩が痛み出していたが、異様な高ぶりがまだくすぶっているせいか、それほどのつらさはなかった。
 頭から血に染まった姿で部屋に向かって歩いていたら、行く先々で何かどよめきが起きていた。
 だがそんなことはどうでもよかった。今は早く熱いシャワーを浴びて、この生臭くぬちゃぬちゃとぬめる不快極まりない感触を洗い流してしまいたかった。
 そのうち、誰かに呼ばれたのだろう。赤い髪の女が走ってくるのが見えた。
 頭から真っ赤に染まっているサクを見て、アリサは少しばかり驚いたように目を見張った。だがやがてその白い顔に、恍惚とした笑みがゆっくりと広がった。
 アリサが腕を伸ばし、汚れるのも構わず、サクを抱き締めた。
「部屋に帰りましょう。お風呂に入れてあげるわ、サク」
 サクは何も言わず、アリサを見上げることもせず、ただその腕が促すままにまた歩き出した。
 肌の上で乾き始めた血糊の感触が、ぱりぱりとただ不快だった。


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