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‐original BL novels‐



エレクシオン (2)

   § : 「エレクシオン」 メビウスの蛇 後日談1
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 春に行なわれたレインスター外遊から帰国した後、しばらく国を留守にしたせいで、フィロネルは普段以上に忙しい日々を送っていた。
 それが最近はようやく一段落し、今日は久し振りに、フィロネルはまだ陽のあるうちから、執務室ではなく自室でソファに凭れていた。もっともテーブルにはそう急ぎではない内容の書類が置かれ、フィロネルの目はそれらに綴られた文字を追ってはいたが。
 皇子であるフィロネルの私室は複数の部屋が繋がり、とにかく広くて溜め息が出るほど煌びやかなのだが、そこに寛いだ格好で座っていても違和感がないのはさすがだ、とユアンは思う。
 レインスターから戻ってきたフィロネルは、皇子というには質素なほど飾り気のない服装に戻っていたが、腰まで届く長い黄金の髪は相変わらず見事で、元々の見映えが良いから充分にさまになっていた。皇子らしく豪奢な装いも良いが、やはりこういう簡素な装いの方が、フィロネルの持ち前の美しさは際立つように感じる。
 この私室に立ち入りを許されている者は、召使いや警備関係を除いては、今のところユアンだけであるようだ。公務を完全に休むことは難しい皇子は、公には休みとしながら私室で仕事をすることもあり、そういうときはユアンも部屋にいるよう命じられていた。
 ユアンがやることは、執務室にいるときとたいして変わらない。皇子が求めそうな資料をあらかじめ用意しておいたり、何か聞かれれば答えたり、自分でも様々な情報を仕入れつつ整理しながら過ごす。それから、最近は皇子のためにお茶を淹れたりもする。
 フィロネルは通常は、専門の毒味係を通さないものは一切口にしないが、私室でユアンが淹れるお茶だけはそのまま飲んだ。
 勿論、使う食器やお湯や茶葉には事前に厳しくチェックが入っているのだが、そんなささやかなことでさえ、ユアンには妙に嬉しい。自分でお茶を淹れる習慣は元々はなかったのだが、どうせなら美味しいお茶を飲んでほしいと思うので、近頃ユアンは厨房の調理師達やメイド達に淹れ方のコツを教わるようになっていた。
 仕事中のフィロネルは余計なことを一切喋らないから、部屋はとても静かだ。私事と公事をきっちり区別するたちであるらしいフィロネルは、こういうときはたとえ二人だけでいても、ユアンにおかしな手を出してくることはない。レインスターに滞在していたときも、キスくらいはされたが、それ以上のことは一切ユアンはされなかった。
 そういった線引きを明確に定めている皇子のことが、ユアンには好ましい。真剣な顔で何やら思案している様子のフィロネルにも、以前より取っつきにくさを感じなかった。
 窓からの光に柔らかく輪郭を浮かせているフィロネルの姿が、元から整っているだけにやけに綺麗に見えて、必要最低限の言葉を交わすだけのこんな時間も、ユアンは居心地がよかった。
 ​​​──昨年、まだ本格的な冬を迎える前にフィンディアス皇宮から姿を消し、その後突然現れた皇子に連れ戻されたユアンは、皇宮に戻ってきてからそれなりにいろいろあった。病があって暖かい国で静養していたのだ、と皇子と申し合わせてはおいたものの、明らかに皇子に贔屓にされているユアンを快く思わない者も当然いたから、けっこう厭味や陰口を言われもした。
 さらにユアンは、皇子の参謀的な立場にある老齢の宰相アグリアスに出自を掴まれ、非公式ではあるがファリアス出身であることを厳しく言及された。そんな怪しい者を大事な皇子の側に置くわけにはいかない、というのは、実にもっともな話ではあった。
 その場には皇子も立ち会い、三人だけで内密に話したのだが、ユアンとしてはこうなると事実をありのままに​​​──元々はフィロネルを暗殺しに来たのだということは勿論伏せたが​​​──話す他になかった。当初はフィロネルを恨む気持ちもあったが、縁あって仕えるうちに、その気持ちも変化したこと。今はフィロネルの為に身命を賭して尽くす覚悟であること。
 アグリアスは、かつてフィロネルが大粛正を行なった後に新たに宰相に任命された人物で、立場上フィロネルに次ぐ国政の責任者だ。だが皇子に見込まれるだけあって、私利私欲のない清廉な人物だった。そして、非常に頑固で頭が切れる。常に厳めしい顔でにこりともしない宰相は、そのうちユアンではなくフィロネルと喧々囂々と言い合いになり、最終的には頑として譲らなかった皇子に押し切られた。
「殿下がそこまで仰るのでしたら、私もユアン殿を信じましょう。ですが今後、少しでも殿下に仇為すような嫌疑が上がれば、そのときは容赦は致しません。よろしいですね」
 頭髪も既に真っ白な老齢でありながら、そう言ってユアンを睨み付けたアグリアスの眼光は炯々と鋭く、ユアンはただ恐縮する他になかった。しかし「この件については私の胸にしまっておきます」と最後に言ってくれた宰相に、ユアンは深く頭を下げて感謝した。
 あの気難しげな老人とフィロネルの間には、ユアンもまた知らない信頼関係があるのだろう。ユアンの処遇を巡ってアグリアスと言い合いをしていたときのフィロネルを思い出し、ユアンはつい笑ってしまった。今でこそ笑えるのだし、そもそも原因であるユアンが笑ってはいけないのだが、言っては悪いがあれほど感情的で子供っぽく見えた皇子など、あのときが初めてだった。
「何を一人で笑っている?」
 そこに急にフィロネルから声をかけられ、ユアンは焦った。見るとフィロネルは、どうやら手元にあった書類は一通り処理し終えたらしく、なんとなく人の悪い笑みを浮かべながらユアンに視線を投げていた。
「いえ、別に……思い出し笑いです」
 普段うっかり言葉遣いが乱れてしまうことのないよう、ユアンはフィロネルに対し丁寧に喋るようにしている。もっとも二人だけで人目がないときなどは、どうかするとそれもすぐに崩れてしまうのだが。
「思い出し笑いでも、おまえがそうやって自然に笑えるようになったのは良いことだな」
 意外なほどやわらいだ表情で、皇子はそんなことを言った。
「……そうですか?」
 フィロネルにそう言われるとは思っていなかったユアンは、またどんな顔をしたらいいのか分からなくなって、ごまかすようにそっけなく手元に開いていた書物に目を落とした。
 フィロネルが自分のことを気にかけてくれている、ということ自体が、嬉しいのだが気恥ずかしくて、なかなか慣れない。それにフィロネルは、普段は冷然と構えているくせに、ふとした拍子に真心を見せてくるから、こちらも調子が狂う。
 しかもあの人の悪い笑い方からして、こうやってユアンが戸惑うことも、フィロネルは分かっているのだろう。自分がどうも、フィロネルの掌の上にあるように思える。ユアンは涼しい顔をしてこちらを眺めている皇子に気付くと、やや目つきをきつくした。
「何を笑っているんです」
「いや。こちらに来い」
 手招きされ、また何かからかわれるのかと若干警戒しながら、ユアンは皇子から離れて座っていた椅子を立った。
 フィロネルは今日は午後から公休扱いになっているので、既に正午を回っている今は、普段よりも楽な部屋着姿になっている。とはいってもやはり材質や作りは上等なので、襟元などを多少着崩していてもだらしなくは見えない。装飾品がないだけに柔らかく流れ落ちる黄金の髪が映え、そんな皇子の姿もまたユアンの目には新鮮だった。
 大きなソファにゆったりと座っている皇子の隣に、ユアンは腕を引っ張られて腰を下ろした。当たり前のように濃紺の髪を撫でられ耳元にキスをされて、ユアンはさらに動揺したが、こんなことをしてくるということは今日の公務は終了したということだろう。フィロネルが日頃から忙しいことを知っているだけに、ねぎらいたい気持ちもあって、ユアンはあえてそれを拒まなかった。
 いったい何を思い出して笑っていたのか、と問われ、ユアンが率直に答えると、フィロネルは軽く噴き出した。
「アグリアスは、元々は子供だった頃の俺につけられていた教師なんだ。昔から愛想がなくて、言うことも歯に衣を着せない。だが誠実で嘘がない。だから意見が行き違うと、俺もついむきになる」
「……ああいうふうに、あんたを心から案じている人もいるんだな。少し安心した」
 話すうちに、いつの間にか言葉が気易いものになっていた。フィロネルもそれを気にする様子もなかった。
「さすがに、隙あらば後ろから斬り付けてくるような者を重鎮には据えていないつもりだ。そうそう俺は死ぬわけにはいかないからな」
「それは皮肉か?」
 む、とユアンは決まりの悪さに唇を曲げた。
「皮肉ではない。それに俺は、おまえには殺されても文句は言えないと思っている。それは今も変わらないぞ」
 フィロネルは笑ってはいるが、そのアメジスト色の瞳の奥には真摯な光がある。
 その瞳を見ていると、フィロネルの言葉は本当だろう、とユアンには思えた。
 もしもユアンが心底から命を望んだら、フィロネルは拒まないだろう。そして、それをフィロネルが本心から許していると感じられるから、ユアンももう皇子に向けるための刃を手に取ろうとは思わない。
 フィロネルのどんな宝玉よりも美しい紫色の瞳を上目に見上げながら、ユアンは照れ隠しにぼやいた。
「そのわりにひどかったじゃないか。最初はいろいろと」
「それはまあ……俺もおまえとこうなるとは思わなかったから、多少は手荒にした記憶はあるがな」
「多少で済むかっ。俺はあのときは本当につらかったんだぞ!」
 フィロネルとの出会いと、その後に起きたことをまざまざと思い出してしまい、思わずユアンは声音を上げた。
 その様子を悠然と見返しながら、皇子が言い返した。
「殺されないだけありがたく思え」
「は?」
「と、あのときの俺は思っていた。許せ」
「…………」
 そう言われてしまうと、ユアンも返す言葉がなかった。あの状況は痛み分けとでもいうべきもので、さらに言えばユアンがあのとき殺されなかったこと自体が本当に酔狂な話であって。あのとき皇宮を訪れるに到った動機自体を決して詫びる気はないし、自分の選んだ行動を悔やむこともないが、それだけにユアンには、皇子の所行を恨む筋合いは、本来ない。
 だが、そうやって居直られるのもいまいち納得がいかない。何しろあのときは、身も心も本当に死ぬかと思うほど苦しかったのだから。
 ユアンが思わず不平もあらわに睨んでいると、フィロネルが苦笑した。その大きな手が持ち上がり、形の綺麗な指がユアンの癖のない濃紺の額髪を持ち上げて、覗かせた額にキスをした。
「二度目からはそうでもなかっただろう。そうむっとした顔をするな」
「……何を根拠に、あんたはそう自信満々なんだ……」
 そんなふうにされると、睨むこともできなくなってしまう。しかも当時のあれこれを思い出して頬が熱くなり、ユアンは顔を隠すために下を向いて嘆息した。
 確かに二度目からは、最初の夜ほどひどい扱いはされなかったと今なら思うが、それでもごく普通の経験しか持たないユアンには充分に衝撃だったし、つらかった。今思えばきっとフィロネルは、ユアンのそういった反応も楽しんでいたのだろう。
 顔を上げないユアンに、フィロネルはまた笑うと、赤くなっている耳に口付けた。そして意味深に囁いた。
「俺は言ったはずだぞ? おまえもじきに取り憑かれると。相手がどういう性質なのかは、一応見極めてやっている。その気がまったくない相手では、俺だとて興醒めしてつまらんからな」
「…………」
 ユアンはその言葉を聞きながら、ますます頬に血が昇って顔を上げられなくなった。皇子のその一言は、確かに覚えている。あの頃はそもそも行為自体を望んでいなかったから、抵抗感と嫌悪感が強かったが、確かに意外に耐えられた。無茶をされて何度も寝込むはめになったし、余裕があったとはとても言えないが。
 フィロネルの指がユアンの顎をすくい上げ、見とれるほど美しい紫色の瞳と目線を重ねさせた。
「おまえが望めば、俺はおまえに合わせることもするぞ。だがおまえは、普通に抱かれるだけでは既に物足りなかろう?」
「なっ……そ、そんなことはない!」
「本当にそうか?」
 真っ赤になって睨み返しているユアンに、フィロネルはいかにも愉快そうに目を細めた。分かってやっているのか、長い金色の睫毛が瞳に淡い翳を落として妖艶さを増す。その指先がユアンの頬をつうとなぞり、悪戯するように唇にふれた。
「レインスターから戻った後、さすがに久し振りだから、俺は最初くらいは優しくしてやろうと思ったんだぞ。それを、縛ってくれと言い出したのはおまえの方だったろう。まさか忘れたとは言うまい?」
「あっ、あれは……その……」
 もうユアンは、恥ずかしさで眩暈がしそうだった。フィンディアスに帰ってきた夜、なまじレインスターではキスしかされていなかったせいもあり、ユアンも感極まって皇子に強く求めてしまった。優しくされるだけでは物足りず、どこかでまだ自分が皇子の元に戻ってきたことが信じられず、恐くもあった。だから、深く強く、限界までフィロネルの存在を感じたかったのだ。
 思い返せば、いつの間にか自分はすっかりフィロネルのやり方に染まっている。それを今頃自覚すると、ユアンはもう耳からうなじまで真っ赤になってしまい、とても皇子の顔を見られなかった。
 その顎に、再びフィロネルの指がかかってくる。ユアンの熱くなった頬を綺麗な指先が撫でながら、形の整った唇が至近距離から囁いた。
「それで良い。そういうふうに俺がしたのだ。おまえもまんざらでもないというのは、俺は嬉しいぞ。ああいうことは無理強いするものではないからな」
「……さんざん無理強いしておいて、よく言うな」
「あれは開発というのだ。素質がなければこうはならん」
「は……?」
 相変わらずその自信はどこから来るんだ、と思うようなことを平然と言い切ったフィロネルの唇が、ユアンの唇を塞いだ。逃れようもなく背に腕を回され、舌を深く挿し込まれ、弱い耳の裏や耳殻を指先でくすぐられる。酔いそうな口付けの甘さに、ユアンはほとんど身を竦めるようにしてぎゅっと目を瞑った。
 こんなふうにされて、引きずられるなという方が無理だ。もっとしっかりしなければと思っているのに、フィロネルの持つ引力が強すぎて、逆らえない。フィロネルのやることなら、結局何でも受け入れてしまいそうな自分が恐い。
 昼間からというには少し濃厚すぎるのではないか、という口付けがほどけると、ユアンの唇から隠しようもないほど熱を帯びた吐息が洩れた。すっかり高められてしまった体温に潤んだ藍色の瞳を、フィロネルはにやりと笑って見下ろした。
「まだ陽が高いからな。続きは夜になってから、ゆっくり楽しむとしよう」
「……あんたは、本当に底意地が悪いな」
 こんなに煽るだけ煽って放置するのかと、ユアンは恨みがましくフィロネルの涼しげに整った顔を睨み上げた。無論、そんなことくらいで動じるような相手ではないことは分かっていたが。
「その方がおまえも燃えるだろう? めりはりというのは大事だぞ。それに、節度もな」
 やけにもっともらしく返されて、ユアンはぐっと言葉に詰まった。確かにその通りなのだが、昼間からあんなことを言ってあんなキスをして煽ったのはおまえじゃないか、と言いたい気持ちもこみあげる。
「節度だとか、あんたが言うな。呆れる」
 唇を尖らせてぷいと横を向くと、フィロネルが声を立てて笑った。
「おまえも憎まれ口が尽きないな。そういうところも俺は好きだ」
 またそんなユアンの体温を上昇させるようなことをあっさり言いながら、フィロネルは一向に赤みのひかないその目許に、からかうように柔らかなキスをした。


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