cats and dogs

‐original BL novels‐



四章 神の死 (1)

   § : 「メビウスの蛇」
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 母は、凍てついた薔薇のように美しい人だった。
 常に最高級のドレスと宝石と装飾品に囲まれ、誰よりも気高く飾られていたが、それらの何よりも母自身の立ち居振る舞いや容姿が美しかった。
 たとえ母が、こちらに対して距離を置き、僅かに微笑むことすらなかったとしても。こちらを見る度に整った眉を厭わしげに寄せ、澄んだ青い瞳に不快感と憎しみをこめて睨むばかりだったとしても。それでも母は、氷の女神のように美しかった。

 父は、肖像画の中では一国の主らしく威風堂々としていたが、自分の記憶にある限りでは、だらしのない愚王でしかなかった。国政をないがしろにして退廃に耽り、嘆願と賄賂があれば誰彼構わず身分と役職を与えていた。心ある廷臣達はやがて諫めることを諦めて、宮廷から遠ざかっていった。
 今思えば、父もまたこの国に​​​──己の巡り合わせた人生に​​​──復讐しようとしていたのかもしれない。放蕩に浸るだけ浸って、荒れすさんだ宮廷と国土を、最後にこちらに押しつけて嗤うつもりだったのかもしれない。

 父も母もまた被害者なのだ、と分かっていた。彼らには自分を憎む権利がある。誇り高く育てられた彼らにとって、それを踏み躙るように見舞った運命は耐え難いものだっただろう。その果てに生まれた「我が子」を愛せなかったとしても、それは彼らの責任ではないだろう。

 でもそれならば。
 ​​​──望まずして此処に生まれた私にもまた、貴方がたを憎む権利はあるでしょう?

        ◇

 ユアンがまだしも正気をもって自分を認識したのは、柔らかく清潔な寝台の中だった。なんとかあたりを見渡し、ここが自分に与えられた個室であることを理解した。
 頭の巡りが緩慢で、ものがよく考えられなかった。全身がひどく熱く、鈍痛がして、肌はひりつくように痛む。とくに両肩の後ろと背中の痛みが強く、いくらベッドの寝心地は良いといっても、とても仰向けになれなかった。
 呻いているうちに、見覚えのある召使いに薬らしい何かを飲まされて、濡れた布で額や頬の汗を拭われた。それを心地よいと思っているうちに、ユアンは吸い込まれるように、また意識を失ってしまった。

 何度か意識の混濁と覚醒を繰り返すうちに、少しずつ楽になっていった。どうやら過度の負担を強いられたことと、ほぼ全身に傷を負わされたことが重なって、高熱を発したものらしい。フィロネルに関わってからまだそれほど長くもないが、こうして酷い扱いを受けた結果寝込むことになるのは、既に三度目だった。
 時間や日数の感覚もあまり無いままうつらうつらしながら、しかしユアンは、フィロネルに対して憤懣を沸かせ毒づくことが、これまでのようにはできなかった。
 半ば眠りかけた頭の中に、まとまりのないまま、様々なことが浮かんでは流れてゆく。
 無防備になった心は、今回のことを引き起こしたのはそもそもユアン自身の失言のせいであることを自覚していた。たとえ疲弊し鬱屈していたにせよ、おそらくフィロネルにとって何より許し難い、そしてフィロネル自身に何も咎は無い部分をなじるとは。いくら荒んでいたからといって、自分はそこまで堕ちたのかと思うと、自己嫌悪と共に言いようもない虚しさが襲ってきた。
 ぼんやりと漂うように思う一方で、あの日フィロネルの寝台で聞かされた言葉が、繰り返し脳裏に甦った。
 ​​​──おまえに、刃などよりも余程確実に俺の息の根を止める武器を与えてやろう。
 あの日のことは後になるほど記憶があやふやになっているから、そう聞いたことも夢だったのかもしれない。けれどあの遣り取りのことだけは、夢とは思えないほど生々しく克明に記憶に残っていた。あまりに突拍子もない内容に、あのときだけは自分の置かれている状況も何もかもが吹き飛んだことも。
 フィロネルの父親は、寝たきりで姿を現さない現皇帝ルカディウスではなく、公然の秘密だと言われている先の皇帝ですらなく、レインスターのウェルディア王だ​​​──という。
 皇子の語ったことは本当なのだろうか。本当だとしたら、なぜユアンにそんなことを語ったのだろうか。
 確かにそれが事実であれば、直接的な刃よりも、扱い次第でよほど確実にフィロネルに報復できる手札にはなる。
 だが、あまりに内容が内容で、おいそれとは信じ難い。そもそも、フィロネルの母親​​​──つまり今は亡き皇后イザリアにしても、この国で最も神聖不可侵であるやんごとなき女性だろうに。よりによって、なぜそんなことが起きたのだろう……?
 不可解にすぎることばかりで、微睡んだ頭の中に、様々なことが雪片のように舞っては消えていった。
 フィンディアスの空のように灰色に霞んだ夢うつつの中に、ここに来てから起きた様々な出来事が浮かぶ。フィロネルの姿を初めて見たバルコニーや、囚われて苦しみの中で組み伏せられたこと。従者の立場を与えられて忙しく過ごすようになったこと。刺客に襲われたことや、実の伯父を皇子の命で処分したこと。皇子に掴みかかって、憤怒のままに叫んだこと。
 すまなかった、と詫びた皇子の言葉が甦った。すまなかったで済むと思うかと、ユアンは怒鳴り返した。どう詫びられたところで、父も母も妹も、誰も彼も、失われてしまった故郷も戻ってはこない。けれど。皇子に詫びられたあのとき、そんなことを想像だにしていなかった自分は、ひどく驚愕してもいた。
 それらがどこかへ消えてゆくと、それ以前の記憶が掴みどころのないまま浮かび上がった。突然の祖国の滅亡と、愛する者達の死を目の当たりにした。もう失われてしまった、優しく愛しい日々の記憶が、泡沫のように漂った。
 それらを見送った後、こことはまた違う異国の地で過ごしていた日々の光景が浮かんできた。
 陰鬱なフィンディアス皇宮とはまったく印象の違う、絢爛で華やかなレインスター王宮。そこの中心に君臨していた、覇王の威厳と鷹のような猛々しさを併せ持った、気高く美しい一人の男性。
 ​​​──ああ。そういえば。
 記憶の澱にひるがえったまばゆいばかりの黄金の色彩に、ユアンは夢うつつに納得していた。それはウェルディア王の持つ金髪の輝きであり、フィロネルの黄金の髪の色でもあった。記憶の底に見た姿に、もうひとつの色彩が重なってゆく。それは生き写しかと思うような、二人の持つ瞳の鮮やかな紫だった。
 並べてみれば、きっと誰もが驚くほどに、あの二人は姿形が似通っている。あの見事な黄金の髪も紫の瞳も、恐いほどの美貌も。
 ユアンの意識は、曖昧に微睡んだ夢の世界を彷徨い続けた。幾度も繰り返して過去を辿り、苦しくつらい感情をなぞり。今はもうユアンの世界から零れ落ちてしまった、取り返しのつかない幸せな日々を思って、いつしか眠りながら泣いていた。


 どうにも気分も頭も晴れぬまま、ユアンは数日を寝台の上で過ごした。フィロネルの最大の弱みを握ったのかもしれない、と喜ぶべきなのに、まったく心が浮き立たなかった。
 だが適切な看護を施されて体調が回復してゆくにつれ、悶々とただ伏していることにも耐えられなくなってきた。
 フィロネルに事の真偽を問いただしたい。それから、もしも本当なら、なぜそんなことを自分にわざわざ教えたのか、とも。フィロネルの思考が読めないのは今に始まったことではないが、今度こそユアンは、困惑を通り越して混乱しかかっていた。
 傷が痛むのは変わらなかったが、鞭打たれたところは、皮膚の損傷よりも内部の鬱血がひどかった。痛々しくは見えるものの、痛みが引き始めるのは早かった。
 フィロネルはユアンをひどく痛めつけはするが、まるで方法に精通しているように、後遺症が残ったり傷痕が残ったりするようなことはない。悪趣味なと思う一方、その手練れ様にユアンはつい感心させられる。
 ただ今回は、その例外があった。
 起き出せるようになってから、ユアンは一度だけ、足許から頭の先まで全身を映し出せる大きな姿見の前に立ってみた。背中をはだけて後ろを見ると、両肩の後ろと背中の地肌に、特徴的な蛇の姿がくっきりと浮かび上がっていた。
 互いを相食みながら絡み合う二匹の蛇。それは、フィンディアス皇家の紋章だった。
 生身に焼き付けられたそれは、この目で見てしまうとやはりショックだった。いくら皇家の紋章だといっても、焼き印など奴隷や家畜に押されるもの、分類や所有権を示すためのものというくらいの認識しかない。焼きごてを押しつけられたときの衝撃と苦痛を思い出して、ユアンは顔を顰めた。
 しかし、ここまでされるほどフィロネルの逆鱗にふれることを言ってしまったのだ、と冷静に思う自分もいた。
 今になってこれまでの出来事を振り返り、認めざるを得ないことがある。確かにフィロネルは、ユアンを酷い暴力をもって犯し弄んだ。それらはとても寛容できることではないが、一方でフィロネルは、「暗殺者」であるユアンを、結果だけ見れば本当に頭がおかしいとしか思えないほど厚遇している。
 ​​​──なぜ、俺にこんなことをする。
 ​​​──なぜ俺にあんなことを教えた。いったいおまえは何を考えている。
 混乱と困惑はただ深まるばかりで、ユアンは服を戻し、重い溜め息をついた。
 皇子からは、動けるようになったら出仕するようにと言付けがされていた。まだ身体の随所は痛むし、痣もひどくて衣服で隠す必要はあったが、ひとまず熱は下がっていた。焼き印も定着し、手当のおかげで周囲の肌の火傷もだいぶ癒えて、もう痛みはそれほどでもない。
 これ以上一人でただ思い悩んでいても、どうなるものでもないことは分かっていた。だがいつになく、フィロネルに会うことが気鬱だった。
 事の真相を確認したい思いはあったが、どこかで皇子に会うことに怯んでいる自分がいる。これまではどんな時でも、怒りや憎しみが行動を後押ししていた。それらも勿論消えてはいないが、ただそれだけに衝き動かされるには、今は感情が入り乱れ、思考が錯綜しすぎていた。
 何か迷子になったような不安を覚え、ユアンはそれを払うように強く首を振った。フィロネルに会うことを避けるわけにはいかない。躊躇う程に、行動に移すことができなくなりそうだった。
 ​​​──いつまでも、ただこうしているわけにもいかないのだ。
 いったい何のつもりなのか、おまえは何を考えているのかと、それを問いただそう。
 その日の夕食を部屋に運んできた召使いに、ユアンは「明日は出仕する」とだけ伝えた。


 気が付けば、フィンディアスの短い夏はとうに過ぎ去っていた。もっと暖かい国であるファリアス育ちのユアンからすれば、もう冬の入り口ではないかと思うほど、朝晩は冷え込むようになっている。
 フィンディアスは領土がファリアスの数倍も広いので、地域によって気候もかなり違う。だが全体に言えるのは、夏は短く、春も秋もほとんど一瞬で、冬と呼ばれる季節が最も長いこと。そして寒暖差が激しいこと。皇都のあたりは、その日の朝はもう吐く息が白むほどになっていた。
 ユアンは数日振りに皇子や護衛達と共に皇宮内を歩き、自分が寝込んでいた僅かな間にあたりの木々が紅葉し始めていたことに驚いた。まだ芝生は緑を保っているが、木立の葉はどこか色がくすみ、数枚は明らかに色を変えている。
 普段から曇りがちの空だが、今日は全体に雲はあっても厚みはなく、うっすらと明るかった。雲間からは、ところどころ金色味を帯びた陽光が差している。
 朝晩は冷えるが、日差しがあればまだ昼間は暖かくなるだろう。柔らかな陽光が沁みるような風景をぼんやり眺めながら歩くうち、ユアンは皇子の執務室に着いていた。

 皇太子であり最高執政者でもあるフィロネルは、私室で過ごす以外は一人で行動するということが滅多に無い。用向きのある誰かしらが常に側にいることは勿論、専属の護衛達に取り囲まれ、その端についてユアンも共に行動している。
 今日は面会希望が多く、ユアン自身も休んでいた間の出来事などを整理しているうちに、慌ただしく執務室での時間は過ぎていった。
 皇子と一対一で話せる機会といえば、閨を別にすればこの執務室の中くらいしかない。これは今話すことは無理そうだと思い、ユアンは溜め息を吐いた。
 そのユアンの溜め息を聞きとめたのか、不意にフィロネルが視線を上げた。
 フィロネルはユアンと数日振りに顔を合わせても、別段表情も変えず、特別な言葉をかけるでもなかった。その深いアメジスト色の瞳を急に巡らされてどきりとしたのは、ユアンの方だった。
 そのときは丁度、訪れる者達の足が切れた合間で、執務室には他に誰もいなかった。
 窓の外からの薄陽を受けた皇子の黄金の髪は、光を浮かすように柔らかく輝いている。彫像のように美しく整った貌を真っ直ぐに向けられて、ユアンは自分でも驚くほど動揺した。
 何しろあんな話を聞かされた後だ。いったい何を言われるのだろう。皇子は何を言うつもりなのだろう。
 身構えていると、フィロネルは無表情に近い執政者としての貌を崩すこともないまま、口を開いた。
「身体はもういいのか」
「……え」
 あまりに普通の問いかけに、身構えていたユアンは肩すかしを食った。数秒まじまじと見返してしまい、はたと我に返る。
「……まあ、痛みますが。なんとか」
「そうか」
 皇子という立場にある者に対して返すにはぞんざいすぎる返答に、フィロネルは何ら感情のうかがえない声を返した。そしてそれ以上は何も言わず、フィロネルは手にしていた書類に目を戻した。
 皇子から続く言葉が一切なさそうであるのを見て取ると、ユアンはますます拍子抜けした。
 何だ。どうして何も言わない。あんなとんでもないことを言っておきながら、それについてふれないというのはないだろう。それともあれは、やはりユアンの夢だったのだろうか?
 困惑しているうちに、扉の外から面会を求める声が聞こえ、ユアンは慌てて立ち上がり応対に出た。
 その後もフィロネルから特別なことは何も言われず、ユアンはどうにもすっきりしないまま、その日の勤めを終えた。


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