cats and dogs

‐original BL novels‐



二章 氷滴 (1)

   § : 「メビウスの蛇」
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 灼かれるように熱い、と思った。
 足許が妙に頼りなく、踏んでも踏んでも崩れてゆく砂の上を往くようだ。
 何もかもが妙に曖昧な中、ユアンは炎の中を彷徨っていた。
 いつから自分がここに居たのかも分からない。ただ、強い焦燥にかられて炎の中を右往左往する自分を、もう一人のやけに冷静な自分が眺めているような感覚があった。
 ​​​──父上。母上。タリア。
 炎の中を彷徨いながら、ユアンは必死で家族のことを呼んでいた。かつての美しい様子など見る影もないほど荒らされ、ほうぼうに見知った召使い達の姿が倒れた、地獄の底のように燃え上がる屋敷の中。幼い頃からそこで過ごしてきた愛すべき風景は、無慈悲な略奪と炎とに晒されて、その姿を永遠に喪っていこうとしていた。
 悪夢の中を彷徨った末、炎に呑まれてゆく部屋の中に、両親と妹の姿を見つけた。血溜まりの中に倒れた親しく愛しい三人は、父親は部屋の隅に転がり、母親と妹は衣服を無惨に破られ身体を暴かれた上で、いずれも完全に事切れていた。
 ​​​──なぜ。
 彼らとも思えないほど苦しげな形相のまま骸と成り果てた姿を前に、ユアンは何もできなかった。ただ膝が砕けたように座り込んで、呆然とする他に。
 ​​​──なぜ、こんなことになった。なぜ皆が、父母が、妹が、こんなふうに死ななければならなかった。なぜ自分はそれを助けられなかった。一人だけおめおめと生き残って、この先をどう生きればいいというのだ。
 焼け落ちてゆく館の中から、せめて彼らを連れ出そうとした。だが火のまわりが早く、血まみれの妹を背負ってなんとか外に出たところで、館の入り口は崩れ落ち、中に戻ることはできなくなった。
 体温のまだかろうじで残る妹の身体は、負った背中にずしりと錘のように重かった。妹の身体から滲み出し、ユアン自身の身もまた濡らしてゆく真っ赤な血の生臭さが、だらりと垂れて枝のように揺れる妹の腕が、眩暈を伴ってユアンの記憶に灼きついた。
 人目を逃れ、分け入った森の中で、たった一人で妹の遺体を埋葬した。たむける花すらない土饅頭の前で、ユアンはその場に崩れ落ちて慟哭した。
 屋敷を飲み込んでいった炎のように、妹の身体から流れ出して彼自身も染め上げた血のように、不気味なほど鮮やかな夕映えの中で、ユアンは己の中に刻み込んだ。濁流のように荒れ狂い、燃え盛る溶岩のように灼熱する感情のまま。
 ​​​──復讐してやる。必ず。
 この結果をもたらした存在を打ち砕いてやる。愛する者達が味わった以上の苦痛と恐怖を刻みつけ、自分が何をしたのかを思い知らせてやる。
 そこに正義があるのか、などはどうでもよかった。その逸り猛る感情のままに、彼は攻め滅ぼされた祖国を抜け出し、北へと向かった。
 彼の祖国を滅ぼし、彼の愛する者達を苦痛の末の死に追いやった、憎悪すべき存在の命を摘み取るために。


 ひどく全身が重く、身体中が痛みを発する中で、ユアンは呻きながら目を覚ました。
「う……」
 発熱もしているのか、起き上がろうにも頭が朦朧と熱く、強い眩暈がして身を起こせなかった。実に最悪な夢見だったのは、この異様な熱さと不快感のせいらしい。
 思考がうまく働かない中で、なんとか汗と涙に潤んだ目を開き、あたりの様子を窺う。自分が感触の良い柔らかなベッドにいること、そのベッドも室内の様子もいかにも豪奢で凝っていることは、なんとか見て取ることができた。
 かろうじで思い出せるのは、憎い仇であるフィロネルにいいように嬲りものにされたことと、そこで交わされた奇妙というより他にない会話だった。脳裏に甦ったあまりの仕打ちに、一瞬にして心拍数が跳ね上がり、ただでさえ熱かった頭にさらに血が昇る。湧き上がる怒りと憎悪と屈辱感に一瞬で理性を呑まれそうになり、ユアンは呻いて柔らかな枕に額を押し付けた。
 ……絶対に許さない。あの悪魔。殺してやる。殺してやる。よくもあんなことを。
 ガンガンと痛む頭を枕に押し付け、左手で枕を握り締めた。右手首は、動かすことすらできないほど痛んでいた。
 俺は生かされたのか。殺すために仕えろだと。あの悪魔、わけのわからないことを。
 まとまりを持たない思考と感情ばかりが、怒濤のように頭の中を駆け巡った。自分の呼吸音さえ耳障りで、けれど呻きながら息をするだけで今はやっとだった。
 ​​​──言われなくても殺してやる。貴様など。
 愛する者達の骸が、背負った妹の冷えてゆく血と重さが、繰り返して記憶の底に明滅した。
 そうしているうちに、澱んだ忌まわしい暗闇にどうしようもなく意識が引きずり込まれていった。


 次に目を覚ましたときには、もう少し楽になっていた。
 まだ熱があるのか若干朦朧とはしたが、冷静にあたりを見回して状況を把握することくらいは、なんとかできる。
 この部屋は立派な作りではあるが、広さはそれほどでもない。勿論、庶民の住む一般家屋に比べたら充分すぎるほど広々としているが。
 ほとんどを昏々と眠って過ごし、夢か現か分からないほどおぼろげに覚えている程度だったが、自分の様子を看にくる者達がいることも分かっていた。
 彼らはまだしもユアンの喉を通りそうな食事を、定期的に運んできた。枕元には常に新鮮な水を湛えた水差しが置かれ、彼らは丁寧にユアンの看病をし、その身体を拭いてシーツや枕を取り替えた。
 ただ、ユアンが何を話しかけても、彼らは一様に無言で反応もしなかった。しかしユアンが何かで苦痛を訴えれば、それに対する配慮はしてくれる。そのように接するよう、徹底して仕込まれているのだろう。
 ユアンの身体についた傷にも、彼らは手当てを施してくれた。あの夜厳重に拘束されていた身体は軋むほど痛み、枷を嵌められていた両手首や足首、腿などは鬱血して、場所によっては皮膚が擦り剥けていた。
 それらはまだしも、身体を返されて尻の傷を看られることに、青白い肌が恥ずかしさで赤くなった。しかし彼らはそういった傷にも慣れているようで、物言わず的確な手当てを施すだけだった。その淡々と手慣れた様子から、フィロネルが常々閨に引き込む者達をどう扱っているのかの察しがつくようだった。


 施された手当てはいずれも適切で、じきにユアンはなんとかベッドから一人で降りられるようになった。まだ頭はふらつき、身体も痛んだが、まず徹底して部屋の隅々までを探ってまわった。
 当たり前だが今の自分は身ぐるみ一切を剥がされ、貫頭衣のような簡素な寝間着を与えられているだけだった。あの毒を塗った短剣も取り上げられている。
 あれには肌に刃がかすりさえすれば、全身の肉が外側も内側もじわじわと爛れて腐り、苦悶の末に一ヶ月かけて死に到る恐ろしい猛毒が塗布されていた。バルコニーでフィロネルに遭遇したときに事を決せなかったことが、自分の運の尽きだったのだろう。
 扉は堅牢で鍵が掛かり、どれほど声を上げて叩いても開かれることはなかった。部屋の中にはここだけで不自由なく過ごせるよう設備は整っていたが、要は自分は監禁されているのだと改めて認識した。
 大きな両開きのテラス窓からは、さして広くはないが露台に出ることができた。薄陽が差す灰色の空が広がり、遠くに真夏だというのに降雪したままの険しい山並みと鬱蒼とした森林と、近辺には広がる皇都が眺められ、すぐ下には整えられた庭園が見えた。
 数えてみるとここは地上から四層もの高さにあり、周囲の壁には特に足がかりになるようなものもない。右手首も負傷している今、ここから脱出することは限りなく困難だった。
 あの夜のことを思うと、自分があまりに惨めで情けなく、恥辱のあまり頭がおかしくなりそうだった。暗殺に失敗した今、こうして仇から手当てを受けてのうのうと生き延びていることが、生き恥でなくて何なのだとも思う。何度も露台の縁に手をかけてそこを乗り越えようとし、しかしその度に、ユアンはあの夜のフィロネルの奇妙な言葉を思い出して迷った。
 ​​​──俺に仕えながら俺の命を狙えばいい。そのかわり、おまえの命は俺のものだ。
「何を考えている……」
 狂っている、としか思えない。暗殺者に対してそれを赦し、殺すために従者になれなどと。そのかわりに何を要求しているのだとしても、やはりフィロネルの言い出したことは酔狂としか思えなかった。
 惨めにもしくじり、挙句に仇にさんざん辱められた身で、何を迷う。潔く今すぐここから飛び降りて死んでしまえ。
 そう自分に対して思うのと同時に、フィロネルがああ言うのならばそれに乗ってやればいい、とも思う。
 フィロネルが正気ではなかろうと、どうでもいい。それで仇が討てるのならば、この身ひとつどうなろうと安いものではないか。
 そう思いながらも、あの夜の出来事を思うと、呼吸ができなくなるほど激しい恐怖と抵抗感が湧き上がった。この先もあんなことが続くのかと思うだけで、全身に凄まじい鳥肌と悪寒が生じた。
 この上、こんな自分が生きていて何になる。頭を掻き毟って悶え、発作的にそこの露台の外に身を投げてしまいたい衝動を、ユアンは血が出るほどに唇を噛んで堪えた。あの日炎の中で見た愛しい者達の凄惨な亡骸を思い出し、何度も吐き気にうずくまり嗚咽しながら、矛盾に引き裂かれる胸を押さえて自分に言い聞かせた。
 ​​​──まだこの身に血が通い、生きている以上は、死ねない。
 どれほど呪わしく穢されようと、生き地獄の業火に取り巻かれ奈落に堕ちようと、仇を討つまでは死ねない。
 それが愛する者達のために何ひとつできなかったことへの、苦しみ抜いて死んでいった彼らへの、自分にできるたった一つの償いだ。
 入り乱れる感情のあまりの苦しさに、流れる涙が血の色をしているのではないかと埒もないことを思った。だが頬を濡らし掌を濡らすそれは、こんな自分には滑稽なほど透明に澄んで、弱い日差しに薄く光っていた。


 部屋には大きな姿見や、今は季節柄使われていないが立派な暖炉も備え付けられていた。本棚には様々な本が並んでおり、ユアンは外に出ることができないので、横になるかそれらの本を読んで過ごす他になかった。
 武器になるものはないか、と隅々まで家捜ししてみたが、そういったものはさすがに撤去されていた。火掻き棒はおろか、重量のある置物や花瓶もない。本棚の本も、凶器になるほど重いものもない。そもそもそこまで重いものなど、今の右手の状態では持ち上げることも難しかったが。
 調度品の類いで部屋にあるものは、部屋にあらかじめ据え付けられていて動かせないか、大きなテーブルや棚やソファ等、そもそも凶器にしようがないものばかりだった。さすがにこのあたりは、よく警戒しているようだ。
 水差しを割り、破片を隠し持つことも考えたが、そんなことをすれば躾の行き届いた召使い達に徹底してあらためられ、取り上げられるだけだろう。
 だがふと、棚の上に置かれていた小さな燭台に目をとめた。壁などに据えつけられているものが大半だったが、それだけは掌に乗る程度の大きさで、持ち運びができるようになっていた。
 立てられた蝋燭を抜くと、その下には蝋燭を挿しておく短い杭があった。先端はそこまで尖ってもいないし、これで致命傷を与えることは到底できそうもない。
 ​​​──だが身体の柔らかいところならば。そしてひとまず相手から抵抗力を削ぎ、相手の武器を奪うことができれば。
 ユアンはその燭台が置かれている場所を覚えておき、召使達が動かしても必ず確認しておくようにした。


 いつフィロネルが現れるのかとびくつき、身構えながら過ごすうちに、身体は次第に癒えて楽になっていった。
 いつまでこうして放っておかれるのだろう。もしやこのままフィロネルは現れないつもりなのか、と、まさかと思いながらも疑い始めた頃、唐突に耳に覚えのあるものと異なる足音が聞こえてきた。
 誰に憚ることもなく、堂々と胸を張り闊歩する姿をたやすく想像できるその響きに、ユアンの心臓がビクリと飛び上がって全身が硬直した。
 ​​​──来た。
 ぼんやりと腰を下ろしていた長椅子から立ち上がり、全身の毛を逆立てるように身構えたとき、部屋の扉が開かれて豪奢な黄金を纏った姿が入ってきた。

 部屋には時間を計る類いのものが一切なかったから、今がいったい何時なのかは分からなかった。今日も相変わらずの曇り空の下、部屋は陰鬱に薄暗い。
 その薄暗さの中に、燦然と力強く美しい太陽が現れたようだった。腰にまで届く黄金の髪を優雅に流した長身の立ち姿は、皇子という身分のわりに衣服が簡素で装飾品が少ない。にも関わらず、その黄金の髪と見事なアメジスト色の瞳に彩られた姿には、どのように着飾った貴族でも及ばないだろうほどの威厳と美しさがあった。
「久しいな。だいぶ回復したか」
 恐れ気もなく一人で部屋に入ってきたフィロネルは、反射的に立ち上がっていたユアンに、落ち着いた張りのある声を投げかけた。ユアンは気圧され、思わず後ずさりかけた。
 フィロネルに再び会ったら、何がなんでも今度こそ息の根を止めてやろうと思っていた。そのはずが、いざその昂然と優美な、そして恐ろしいような威圧感を持った姿を前にすると、自分で自分が信じられないほどユアンは竦み上がっていた。
 脳裏を一瞬にして駆け巡ったのは、あの夜の忌まわしい仕打ちの数々。あれらがどれほど自分を呪縛し慄かせているのかを、今さらながらユアンは思い知った。
 たちまち心拍数が高まり、全身に怖気が走って血の気がひいてゆく。だが今にも自分を呑み込みそうになった怯懦を、ユアンは必死で抑え込み、フィロネルの姿を見据えた。
 そうしながら、素早くあの小さな燭台の位置を確認する。それは幸い、フィロネルよりは自分の方に近い位置にあった。
 そのユアンの様子に、フィロネルがふと、その目許に笑みを浮かべた。黄金の長い睫毛に縁取られた目許は、妖しいほどに美麗だった。
「気力は挫けていないと見える」
 おかしそうに言ったフィロネルを、ユアンはじっと見据えながら、背を見せぬようにじりじりと移動した。
 そのユアンを、フィロネルは悠然とその場に立ったまま、面白そうに眺めている。どうせこの状況では、不意打ちも何もない。ユアンは無言で移動し、棚の上にあった燭台を掴むと、すぐさま蝋燭を引き抜いてフィロネルに向かって突進した。
 物言わず向かっていったユアンを、フィロネルは躱すことさえしなかった。フィロネルは情け容赦をすることもなく、ユアンのまだ傷が癒えず自由にならない右手首を掴んで捻り上げた。
「う、あッ……!」
 走った激痛にユアンは思わず叫びかけ、だが奥歯を噛み締めて、憎い仇の姿をその藍色の瞳に映し出した。なんとかもがき、左手に持った燭台の杭を、フィロネルの顔面、その美しい紫色の瞳に突き立てようとした。
 しかしあっさりといなされて脚払いをかけられ、視界が回転したと思ったときには、ユアンは優雅な絨毯の上に叩き付けられていた。そのまま右腕を後ろ手に捻り上げられ、うつ伏せに押さえ込まれる。
 背中に膝を乗せられ、負傷した右手を捻り上げられると、さすがに身動きもできなかった。押さえ込まれた背骨や右手首が痛むばかりではなく、肩が外れるのではないかと思うほど関節が軋み、じっとりと脂汗が滲んできた。
「くそっ……」
 痛みよりも、自分に対する不甲斐なさと口惜しさとで、ユアンは呻いた。
 こちらよりも長身で体格も良く、日々の鍛錬や狩りでよく鍛えられたフィロネルにとっては、半病人同然のユアンを取り押さえることなど、それこそ赤子の手を捻るようなものなのだろう。今の自分の状態では、とても太刀打ちできない。
 倒れたときにかなり大きな物音がしたが、誰も部屋に入ってくる気配がないのが不思議だった。ユアンが扉に向けた視線の動きからそれを察したのか、フィロネルが口を開いた。
「誰も入っては来ない。言っただろう。おまえが俺を殺そうとしても咎めぬと」
「……貴様、正気なのか」
 うつ伏せに押さえつけられたまま、かなう限りユアンは首を捻って、フィロネルの姿を捉えた。長く柔らかく流れ落ちる黄金の髪は、間近で見ると溜め息が出るほど美しく輝いていた。
 フィロネルは、それに対しては返事をしなかった。ただ視界の端に映ったその整った貌は、妖しいような微笑を孕んだまま、じっとユアンを見下ろしていた。
 その美しいがこの北の国の空よりも陰鬱な色を帯びた目許に、ぞくり、と、ユアンの背筋に戦慄が走った。
 ​​​──初めてあのバルコニーで会ったときの印象と、今こうして自分を押さえつけているフィロネルの印象が、別人のように違う。
 あのバルコニーで振り返ったときのフィロネルは、ここまで陰惨な色を帯びていなかった。少なくとも自分の目にはそう見えた。
 だが今のフィロネルは、目にしたこちらまで同じ暗闇の底に引きずり込まれそうな、最も深いところでは煮え滾る何かがどろりと澱んでいるような、ぞっとするほど鬱々とした眼差しをしている。この目を見たのは、あの夜の豪奢な寝台の上だった。あの夜、拘束され犯されながら、この恐ろしいような眼差しにユアンは何度も呑まれそうになった。
 ユアンが射竦められたように動けないでいると、物言わずフィロネルが立ち上がった。フィロネルはユアンを警戒する様子も見せず、側に転がっていた小さな燭台を拾い上げて暖炉の中に放り込むと、窓辺の方向に足を運んでいった。
 膝に押さえつけられていた背と、捻られていた右肩と腕が痛み、ユアンは小さく呻きながら起き上がった。
 フィロネルの態度には泰然とした余裕しか伺えないが、それを隙だと思うことはできなかった。一国の皇子でありながら、フィロネルが下手な達人よりも武芸の腕が立つことは周知の話だ。少なくとも今の弱った自分では歯が立たず、まして素手でどうにかなる相手だとも思えない。
 結局、唯々諾々として従う他にないのか。立ち上がる気力もないままでいたところに、美しいが冷ややかな声が聞こえた。
「立ってこちらに来い」
 びくり、と肩が震えてしまい、自分で自分の反応を忌々しく、そして惨めに思いながら、ユアンはフィロネルに目を向けた。こんな男の言葉に従いたくなどない。かなうのならば、今すぐくびり殺してやりたい。
 そんな思いが滲み出ていたのだろう、フィロネルはむしろ楽しげに続けた。
「俺はただでおまえを赦しているわけではない。これはいわば契約だ。拒否するのなら、この場に衛兵を呼び込んでおまえを捕らえるまでのこと。受け入れるというのなら、交換条件だ。こちらに来い」
 では、フィロネルの言葉に従って向こうにいけば、またあの夜のような忌まわしく苦痛に満ちたことを強いられるのか。想像するだけで耐え難い恥辱とおぞましさが湧き上がり、ユアンは青ざめた。
「……どうして、俺にそんなことをさせる」
 一国の事実上の支配者でありながら。ユアンの身柄と引き換えに、いくら絶対の自信があるにせよ、暗殺行為を不問に処すなど。狂っているとしか思えない。
 だがそれに、フィロネルはあっさりと答えた。
「させるわけではない。選ぶのはあくまでもおまえだ、ユアン」
 その言い様に、ユアンはカッときてフィロネルを睨みつけた。
 自分をねぶるように見るフィロネルに、ユアンは震えながら唇を噛んだ。あの夜もそうだった。いったい何がこいつにそこまでさせるのかと思うが、こいつはユアンを追い詰め、嬲りものにすることを楽しんでいる。口惜しいことにこちらの足場と弱みは完全にフィロネルに握られ、どうすることもできない。
 ……何をされても心は屈しなければいい。
 俯いて唇を噛みながら、ユアンは自分に言い聞かせた。
 それで向こうが命をくれてやるというなら安いものだろうと、今までにも何度も自分に言い聞かせたことを、呪文のように繰り返す。
 ​​​──すべてはこの男の命を奪うため。
 その一点に自分の理性を結びつけていなければ、気がふれてしまいそうだった。あの夜の出来事を思い出すだけで、また何をされるのかと思うだけで、手脚が震えて悲鳴を上げたくなる。だがそれらを懸命に抑え込み、ユアンは気力を奮い立たせた。
 こんな身体などくれてやれ。いくら身体は暴かれても、心は絶対に屈しない。
 震えながら立ち上がったユアンに、フィロネルがうっすらと笑った。


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