cats and dogs

‐original BL novels‐



一章 紅の相克 (2)

   § : 「メビウスの蛇」
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 娘​​​──トレイの上に飲み物を乗せた、控えめで清楚なドレス姿の女性給仕は、フィロネルの顔を見ると藍色の瞳をひどく驚いたように見開いた。慌てたように面を伏せ、腰を折る。
「あ、あの……お飲み物を差し上げようかと思ったのですが……大変失礼致しました。申し訳ございません」
 いきなり皇子に対面してしまった驚きと動揺のせいか、娘の声音はややかすれたように上ずっていた。
 その反応からして、娘は皇宮に上がってまだ日が浅いと思しかった。護衛を遠ざけた上とりたてて着飾ってもいない後ろ姿を見て、フィロネルだとは思わずに近付いてきたようだ。皇宮内とはいえ毒見のされていない飲食物を皇子が口にするわけもなく、迂闊な対応をすれば不敬罪に問われると思ってか、娘の肩は小さく震えていた。
 こちらに近付いてくる娘の気配を、振り向く前からフィロネルは察してはいた。嫌味でない程度に飾られた女性給仕用のドレスを纏った娘を、フィロネルは手摺に凭れて無言で見返した。
 給仕とはいえ皇宮に雇われている者だから、彼女達は出自がいずれかの貴族に連なる者ばかりだ。中には貴族の令嬢が、勉強の為に皇宮仕えに上がることもある。
 そういった例に洩れず、そこに立っている娘も立ち居に品があり、女性にしてはすらりと背の高い容姿は見映えが良かった。娘が顔を伏せるまでの数秒垣間見えただけではあったが、なかなか悪くない顔立ちでもあるようだ。
「娘。どこの縁者だ」
 手摺に凭れたまま、フィロネルは若々しく歯切れの良い声で問いかけた。真っ直ぐに発声されるフィロネルの声音は、その華やかで整った容貌に相応しく、張りがあって美しい。
 皇子に直々に声をかけられた娘は、ますます恐縮して腰を深く折った。娘が名乗った名は、やはり覚えのある貴族一門の名だった。
 貴族の娘達が皇宮仕えに上がるのには、「歴代の皇帝の側女の中には、皇宮仕えのうちに見初められた者もいる」という裏事情のためもある。当人が望んでいるにしろいないにしろ、娘を送り込んだ親はそれを承知しているということだ。
 ここしばらくは出征やその後処理で慌しく、誰かと閨を共にすることもなかった。どうせ退屈していたところだし、このどこか初々しいような娘を連れて、今夜は早々に部屋に引っ込むのも良いか。
 フィロネルは結婚を考えてもおらず、また今のところ特定の側女を持つつもりもなかった。しかしたとえ一夜の戯れだとしても、娘とその一門にとっては大変名誉なことだ。やることは娼婦と何も変わらないのだがな、と自らも含めて嘲笑まじりに思いながら、フィロネルは娘に向かって表情を和らげた。
「もう少しこちらに来い。おまえの顔をもっとよく見たい」
 氷血の皇子と呼ばれ普段滅多に笑うことのないフィロネルが、端整で精悍な顔に優しげな微笑を含むと、それだけでどれほど相手の目に魅力的に映るのか。それを知り尽くしている眼差しに、恐る恐るのように娘が僅かに目を上げ、肩を震わせた。
「……はい」
 娘は再び俯き、恐れ多くてとても顔を上げていられないというように、トレイを手にしたまま、しずしずと歩み寄ってきた。
 と、トレイの陰になった娘の左の袖口で何かが小さく煌めいたように見え、それが一瞬フィロネルの視線を引いた。
 その後起きたほんの数秒の出来事は、一切が無声のまま、傍目には異変が起きたことすら気付かせずに進行した。トレイの陰で素早く動いた娘の右手首を、反射的にフィロネルは掴む。娘の手には、一瞬のうちに左袖口から取り出された、小振りではあるが鋭く剣呑な短剣が握られていた。
「残念だな。なかなか悪くない娘だと思ったのに」
 何気ない口調で呟いたフィロネルに、娘が傲然と顔を上げた。一瞬のうちにこうまで人の顔とは変貌するのかと思うほど、深い藍色の瞳は激しく強烈に滾る憎悪の炎を湛えていた。
 娘は恐れ気もなく、真っ向からフィロネルをひたりと睨み上げて視線を動かさない。その混じりけのない純粋な怒りと憎悪を帯びた瞳が恐ろしいほど鮮やかで、フィロネルは思わず目を瞠った。
「……祖国の仇」
 低く低く、呪詛を吐くように、淡い紅をさされた娘の唇が呟いた。憎悪の炎を宿した藍色の瞳が壮絶なほど美しく煌めき、フィロネルに掴まれた娘の腕に力がこもる。まだ諦めていないというように、むしろ我が身などどうなっても良いというような気迫に、咄嗟にフィロネルは娘の手首を捻った。
 娘が呻いてトレイを取り落とし、騒々しい音と共に載せられていたグラスが砕ける。その僅かな隙に、フィロネルは娘の鳩尾を鋭く打った。ちょうど娘自身の身体が盾になり、誰からもそうとは見えない角度で。
 まともに急所に入った一撃に、息の詰まる短い声と共に、娘が糸が切れたように意識を失う。その手から落ちる前に、フィロネルは短剣を奪い取った。くずおれた娘の袖の中に鞘を見つけ、手早く納めて短剣を自分の帯に差し込んだところで、護衛達が駆けつけてきた。
「殿下、何事でございますか」
「騒ぐな。たいしたことではない」
 ぐったりとした娘を抱き上げながら、フィロネルは事も無げに護衛達を見渡した。フィロネル自身も娘も声を立てなかったおかげで、ほんの僅かなうちに起きた一連の出来事の詳細は、露台の暗さもあって誰の目にも留まってはいなかった。
「この娘が眩暈を起こしただけだ。少し休ませれば目覚めるだろう。私の部屋に連れてゆく」
 言うなり歩き出したフィロネルに、護衛達は一瞬戸惑いながらも、すぐに皇子の前に道を開けて腰を折った。皇宮仕えの娘達に手がつくこともあることは、彼らも知っている。多くを語らずとも、皇子が部屋に連れてゆくと言えば、それで充分だった。
 部屋までは護衛を、と後についてくる足音を、既にフィロネルは耳に入れていなかった。
 ​​​──ドレスの重みがあるにしても、この娘は少女というには随分と重い。
 両腕にかかる娘の重みと、そして抱き上げてみたら存外に硬い、ドレスを通して伝わるその手脚や胴の感触に、フィロネルは確信した。
 そもそも手首を掴んだ時点で、それが華奢な貴族の娘のものではないことに気付いていた。その後に腕に込められた力も、非力な娘のものではない。そして「祖国の仇」と呟いたときの低い声音も、明らかに娘のものではなかった。
 ​​​──こいつ、男か。
 苦しげに眉を寄せて睫毛を閉じた白い顔に、フィロネルは視線を落とした。
 脳裏に、間近で見た藍色の瞳が甦る。あれほど強烈な眼差しは、今までに見た事がなかった。今までに見たどんな宝玉よりも美しい、とあの瞬間に身を貫かれるように思った、深い藍色の瞳。
 歩きながら、無意識のうちにフィロネルの整った口角は薄い笑みを浮かべていた。
 自分でも何故かはよく分からない。だが、ひどく昂揚する。あの眼差しを思い出すと、背筋を熱いような冷たいような掌でぞくぞくと撫でられるように、腹の底から何かが滾り出す感触がある。
「……面白い」
 笑んだ唇から、小さな呟きが落ちた。
 うっすらとした予感が、フィロネルの中に生まれていた。
 ​​​──あの憎悪に美しく燃え上がる瞳を見ることは、きっと自分にとって最高の気晴らしになる。
 自分の中に「あの日」から巣食い続けている黒くざらついた焦燥感と衝動の捌け口を、生身の人間に向けようと考えたことは、これまで無かった。だがひどく当たり前のことのように、とうに定まっていたことのように、フィロネルの中でそれはひとつの形になりつつあった。それが何故であるのか、そのときのフィロネルにはまだ分からなかった。
「面白い」
 もう一度呟き、フィロネルは込み上げるままに喉の奥で笑った。
 あの鮮やかな瞳が、まるで魅入られたように焼き付いている。それを思うだけでも、無性に熱くざわめくものがあった。
 やがて私室の前に着き、護衛達が慎重に開けて中を確認した後に、フィロネルは広く豪奢なそこに足を踏み入れた。
 その背後で、厚く重厚な扉が閉まった。


 フィロネルは部屋に入ると、続き間になっている奥の大きな寝室に向かった。
 幾つもの部屋が繋がったこの部屋は、伝統的に皇太子に与えられる私室であり、調度品も代々受け継がれてきたものだ。それだからフィロネル自身の趣味ではない、やたらと重厚で大袈裟なごてごてとした装飾が多い。いずれの品も売りに出したら目の飛び出るような高値が付くのだろうが、度を越した贅沢には興味のないフィロネルにとってはどうでも良いものばかりだった。むしろ見映えが仰々しいだけで使い勝手が著しく悪いものなどは、あるだけ邪魔だとさえ思っている。
 やたらに大きく豪奢な天蓋付きの寝台が、むしろ重苦しい雰囲気をかもし出している寝室も、フィロネルの趣味とは言い難い。特に夜になると光源が揺らめく燭台だけになるので、重厚な部屋は全体に陰影が深くなり、どこか幻惑的で古の亡霊などが現れてもおかしくはないような空気があった。
 しかし好色かつ性癖の歪んだ皇子達に「代々受け継がれてきた」この部屋と大きな寝台には様々な仕掛けが多く、その点ではなかなか面白みがあった。ごく普通の貴族の娘などにそういったものを用いることはさすがにしないが、思い切り趣味を楽しみたいときなどは、この悪趣味な仕掛けの多い部屋は重宝する。
 抱えてきた娘、否、顔立ちからしてフィロネルよりも幾分年下に見える若い男を、その広い寝台に下ろす。鳩尾を一撃したものがよほどうまく神経の上に入ったようで、その睫毛はまだ持ち上がる様子がなかった。
 抵抗されても取り押さえられる自信はあったが、暴れられると面倒なので、まずその手脚を拘束しておくことにした。
 寝台を支える太い支柱や四方の到るところには、目立たぬよう装飾に専用の金具を紛れ込ませているが、自在に枷を繋ぐことが出来るようになっている。頑丈な鎖のついたそれを、フィロネルは慣れた要領で投げ出された手脚に掛けていった。フィロネルに力任せに捻られた右手首は早くも鬱血して腫れ始めていたが、そこにも構わず手枷を掛けた。
 その上で、その自由をまだ完全には奪わないように、寝台に繋いだ鎖はいくらか緩めておく。しかし四肢を頑丈な拘束に捕らわれたこの状態では、どう足掻いても既に逃れることは不可能だった。
 ドレス姿の一見娘にしか見えない姿が、気を失ったまま手脚に枷を掛けられ、それに繋がる無骨な鎖が豪奢な寝台を這っている様子は、美しく哀れな人形が囚われているような、どこか背徳的な風情があった。
 この娘を装った刺客の持っていた短剣を、一度抜いてよく検分してから、フィロネルは寝台に腰を下ろした。
 傍でその姿をよく見てみると、柔らかな三日月形を描いている眉も湾曲した長い睫毛も自前らしく、それほど化粧を施しているわけではないようだ。
 それでもドレスを纏って髪を上げ、繊細なレースやリボンで身を飾っている姿は、やはり知らなければ娘にしか見えない。元々の顔立ちが柔和で、首まわりや手の甲の色からして肌色も白いのだろう。しかしその肌は、間近で見れば分かるほどには荒れており、閉じられた目許には疲労の色が滲んでいた。
 髪が不自然に浮いていることで気付いたのだが、ドレスに合わせた飾りで纏められたそれはウィッグだった。外してみると、黒と錯覚するほどに深い濃紺の髪が、柔らかなシーツの上に広がった。女性というにはやはり短く、毛先は頬や首筋にかかる程度。元々は美しいのだろうと思える髪だったが、あまり艶はなく、いささか伸びっぱなしになっているようだった。
 髪が短くなり頭部についていた飾りがなくなると、先程よりも娘じみた印象は薄れた。だが今度は、線の細く柔らかな目鼻立ちの美少年といった印象が強くなり、ドレスと枷のせいでいっそう倒錯的な趣が色濃くなった。
 こうして意識を失っている様は、先程見たあの鬼気迫る形相と比べると嘘のような、育ちの良さそうな顔つきをしている。この顔立ちからして、年齢は十七か十八、といった程度だろうか。面輪は柔らかさを残し、大人になりかけてはいるものの、まだ少年と呼んだ方がしっくりくる瑞々しさがあった。
 様々な慾や情念が渦巻いている宮廷に生まれ育ち、しかも誰に何を憚ることもない立場であるフィロネルは、必然的に極めて享楽性が強く、望む嗜好に対しても貪欲だった。男女の区別も年齢の区別もなく、気が向けばこの寝室や他のちょっとした仕掛け部屋に連れ込んで、淫蕩かつ退廃的な情事に耽ることもざらにある。
 それらの中で男色を嗜むことも無論あり、むしろただ人形のように着飾っているだけの没個性な貴族の姫君などよりも、そちらの方が余程楽しかった。身も心も磨き抜かれた若い騎士などは、特に愛でるに値するほど美しい。気性の強いものであれば、貴族の姫君相手などには到底できないような扱いをしてやることもできた。
 少女と見まごう美少年も良いが、何しろフィロネルが皇子であるだけに、あまり歳若い者の場合は相手が萎縮してしまうことが多い。憐憫を誘うような弱々しく儚げな者も悪くはないが、美しい者を好み嗜虐性の強いフィロネルにとっては、そう簡単には折れない、活きが良く気の強い者の方が好ましかった。
 この刺客を寝室に連れて来たのは気まぐれによる衝動だったが、寝台に横たえた少年をあらためて眺めるほどに、フィロネルは愉悦の予感がぞくぞくと背筋を撫で回すのを感じた。
 ふとこの少年の素顔をはっきりと見たくなり、手巾に化粧落しを染み込ませてきた。ぐいと白く細い顎を掴んで、その肌を拭う。化粧の白粉が拭われた下から現れた素肌は、だいぶ血色が悪かった。
「う……」
 顔を遠慮なく濡れた布で擦られ、さすがにずっと閉じられていた瞼が揺れた。髪と同じ濃紺色の長い睫毛が綺麗に上向いている瞼が、怪訝そうに弱く瞬く。
「いッ……う……」
 打たれた鳩尾に残る鈍痛が真っ先に襲ったのだろう、少年は思わずのように胴を庇いかける。が、その枷と鎖に繋がれた手脚は中途半端にしか持ち上がらず、引っ張られたことでがちゃりと金具が鈍い音を立てた。
 ぎょっとしたように、少年が自分の手脚に架せられた枷と重い鎖を見た。燭台のゆらめく豪奢な部屋の中、天蓋に覆われた寝台に自分が繋がれて横たわっていること、すぐ傍らにフィロネルが腰を下ろしているという状況について、少年は明らかに理解が追いついていない困惑した表情を浮かべた。
 しかしフィロネルの姿を見た事が、少年にとっては何よりの気つけになったようだ。少なくとも意識を失うまでの経緯は一瞬のうちに思い出したらしく、たちどころに少年の藍色の瞳に強烈な敵愾心が燃え上がった。
「随分ゆっくりと眠っていたな。皇太子の寝台の寝心地はどうだった」
 その様子を眺めながら、フィロネルは口許だけで微笑した。


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