cats and dogs

‐original BL novels‐



一週間後に咲く花へ (5)

   § : L.D.02 「一週間後に咲く花へ」
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 手が不自由なアゲハのかわりに、慧生は夕食の後片付けもしてくれた。
 きちんと片付いたキッチン全体を見て、この人は本来自分のことは自分でできる人なんだなぁ、とアゲハは思う。
 アゲハがこの家に来たばかりの頃は、家中が荒れ果ててひどいありさまだったけれど、散らかっていたものを片付けてしまえば、掃除には思ったほど時間はかからなかった。普段はあまり開かない箪笥や収納棚などは整頓されていたし、あそこまでの状態に陥ったのは、汚れ具合からしてこの一ヶ月程のことではないかと予想した。
 あれから慧生は煙草も吸う様子がないから、灰皿はしまっておいた。家の空気は静謐に澄んでいて、それは乱される気配はない。
 けれど少なくとも、今この状態を保つことができているのは、アゲハが家事をしているおかげだった。慧生は原稿を書いている間は、周囲の様子に完全に無頓着だったし、書いていないときは心ここにあらずという様子で、ぼうっとしていることが多かった。
 慧生は思っていることをあまり口に出さないから、そうしたときに何を考えているのかは、アゲハには分からない。
 今回の原稿が終わっても、またすぐに次の依頼がどこかからやってくるだろう。あんな慧生を見ていると、無理をしてまで仕事を請けないでほしい、とアゲハは思うが、慧生が請けるというなら、口出しできる権利はない。
 ​​​──自分にできるのは、できるだけ慧生の邪魔をしないこと。それから、少しでも慧生の生活環境を快適にすること。
 そう心に呟きながら、アゲハは慧生の手当てしてくれた両手の包帯を、少し切ない思いで眺めていた。


 アゲハがここに住むようになったとき、慧生はゲストルームを与えてくれようとしたのだが、アゲハはそれを断った。荷物もない自分に個人のスペースは必要なかったし、第一にゲストではない。眠るときは、リビングのソファを借りることにした。ゆったりしたソファは寝心地も良くて、小柄なアゲハにはベッドがわりとして充分だった。
 そろそろ休もうかという頃合になると、リビングの主照明は落として、間接照明とスタンドの柔らかな暖色の明かりに、部屋の白い壁はふわりと照らし出される。
 コードレスの小さなスタンドは、ソファ脇のキャビネットの上に置かれていた。小さいが明かりを何段階かに調節できて、部屋の明かりを落としたあとも、ちょっと何かを見たり読んだりするには充分だ。
 いつものように枕と毛布を別室から取ってきたアゲハは、リビングの入り口のところで、慧生とばったり行き会った。
「あ。おやすみなさい、慧生さん」
「あぁ。うん」
 慧生は食事の後に風呂を済ませて、今はナイトウェアがわりのスウェット姿になっていた。
 アゲハは今日は手がこのありさまで風呂を控えたから、着替えるタイミングがなく洋服のままだ。アンドロイドであるアゲハは、何もしなければとくだん汚れないとはいえ、家事をしたり外を出歩いたりしていれば、やはり多少は埃をかぶったりもする。
 アゲハはベッドがわりのソファに上がると、パジャマに着替え始めた。淡い空色をしたこのパジャマも、慧生の服では大きすぎるからと、ここに来てから慧生に買ってもらったものだ。
 ズボンはあまり苦もなく履き替えられたものの、包帯ぐるぐるの手で上着のボタンを留めるのは、思いのほか難儀だった。アゲハはソファの上にぺたんと座って、真剣に、しかし傍目にはもたもたと、ボタンを留めにかかった。
 やっと下の二つを留めたとき、アゲハはふと視線を感じた。熱中してしまっていたので気付かなかったが、リビングの出入り口あたりに慧生が佇んだまま、アゲハのことを見つめていた。
「あ、あれ? どうかしましたか、慧生さん」
 思わぬところにじっと向けられていた視線に、アゲハはどきっとした。
「いや」
 慧生はそれだけ言って、迷うように少し考え込んだあと、アゲハのいるソファに歩み寄ってきた。
 アゲハの傍らに腰を下ろすと、すっとパジャマの合わせ目に手を伸ばしてくる。アゲハはどきりを通り越してぎょっとしてしまったが、何のことはない、慧生の指はアゲハがうまく留められずにいたボタンをかけてくれた。
「……す、すみません」
 アゲハがもたついていたのを、よほど見かねたのだろう。嬉しいと思う反面、まるで小さな子供みたいだという恥ずかしさとで、頬が熱を持った。
「いや。俺のせいだから」
 慧生は淡白に答え、ボタンを下から順に留めてゆく。その仕種が丁寧で、ことさらゆっくりでもあるようで、アゲハはまた胸がどぎまぎしてきた。
 慧生に関わることだと、呆れるほどたわいもなく、胸が高まったり、心が弾んだり、逆にしおれたりする。
 アルファトリニティにいた頃​​​──このマンションで目覚める前から、慧生のことを特別に慕っていたが、それは深く崇高で、まるで何かに祈るように安定していた。
 生身の慧生に出会って、その声を聞いて、間近で接しているうちに、どんどん気持ちの振れ幅が大きくなってゆく。少しでも気にかけてくれることが嬉しくて、でも切なくて、やわらかな明かりの中で慧生がパジャマのボタンをかけてくれるだけのこの時間が、ずっと終わらなければ良いのにとすら思った。
 勿論そんなことはあるはずもなく、じきに慧生の指はいちばん上のボタンに辿りついた。ボタンを留め、襟を軽く直してくれてから、その手が離れる。
「……ありがとうございます」
 慧生がさっきまでふれてくれていた襟元を、無意識のうちに包帯だらけの手で押さえていた。そこに、慧生の体温が残っている気がする。やけに顔がぽかぽかするのは、頬に血が昇ってしまったせいだろうか。
 慧生は立ち上がろうとせず、その手が今度はさっきよりも高く持ち上げられた。暖色の明かりを受けてプラチナのように煌めくアゲハの髪を、ふわりと撫でる。
「してほしいことは、他にある?」
 言葉を選ぶような少しの間のあと、慧生が問いかけてきた。
 その一瞬、髪を撫でていた彼の指が耳をかすめて、アゲハはびくっとしてしまった。
 勿論それは慧生の故意ではないだろうし、その問いかけも、手が不自由なアゲハに対する気遣いだろう。そう思いながらも、アゲハはいっそう頬が熱くなって、身体をきゅっと竦めた。
 ​​​──そんなふうに優しくされたら、甘えてしまいたくなる。そんなことはしてはいけないと分かっているのに。
 髪を撫でる掌と、問いかけてきた声音の穏やかさに、アゲハは気持ちが緩みそうになりながら、慧生を見上げた。
 翡翠の瞳は暖かみのある光を受けて、秋に色付き始めた木の葉のような、優しく憂いを含んだ色合いに見えた。それがあまりに透明で綺麗で、あたたかな光にふわりと照らされた彼の頬の輪郭が柔らかくて、アゲハは胸を震わせた。
 ​​​──慧生さんは、ごほうびをくれようとしてるんだろうか? 僕が慧生さんのために手を怪我してしまったから、いたわってくれてるんだろうか?
 それなら……今だけ、少しだけ、おねだりしてもいいだろうか……?
「……ぎゅっと、……して、ほしいです……」
 慧生を直視してねだることはとてもできなくて、アゲハはうつむき、つっかえながらようやく望みを口にした。言った途端、今までの比ではない熱さで、かあああッと顔が赤くなった。
 勢いで言ってしまったけれど、なんて大胆なお願いをしてしまったんだろう。こんなことを言って、呆れられてしまったかもしれない。やっぱり言わなければよかった。どうしよう、どうしよ​​​──ぐるぐると後悔がせめぎあい、泣きたい気持ちで竦んでいた身体を、ぎしりとソファが軋む小さな音の後、抱き寄せられた。
 アゲハの身体よりもずっと広い胸板と、すんなりと長い腕。包み込まれたあたたかさの中に、ふわりと慧生の使っているシャンプーの匂いがかすめた。
 アゲハを抱き締めた慧生の手が、その小さな後頭部をゆっくり撫でる。極上の銀糸よりも尚透けるように輝く、仄かな虹色の光を帯びた髪に、慧生の骨ばっているけれど優しい指がからむ。
 思いのほかしっかりと抱き寄せられたアゲハは硬直してしまったが、身体を包むぬくもりに、じきに力が抜けた。
 いけない、と咎める思いと裏腹に、おずおずと腕が持ち上がって、慧生を抱き返してしまう。
 ​​​──ごめんなさい。いけないのに。こんなことはいけないのに。でも、今こうするだけ。それだけなら、いいでしょう?
 少し慧生の腕が緩められて、あふれそうになる想いと涙を懸命に飲み込んでいる小さな顎に、長い指がふれてきた。
 アゲハがびくっと大袈裟なほど反応したが、構わずに慧生の指はその顎を持ち上げた。
「……慧生、さん……?」
 きょとんとした唇に、少しひやりとした唇が重ねられた。一週間前のあの夜と同じ、優しくいたわるような唇。けれどアゲハが目を瞠って動けないうちに、それは繰り返しアゲハの桜色の唇にふれて、体温が移ってゆく。
 ふるっとアゲハの全身が震え、かあっと一瞬で頭に血が昇った。それに押し出されるように、涙が零れ落ちる。慧生の腕の中、弱々しい力で、アゲハはもがいた。
「……だ、だめです……いやだッ……」
 胸を破裂しそうに愛しさが満たし、同時に指先まで悲鳴を上げたいほどの切なさと哀しさが駆け巡って、眩暈がした。心臓がどきどきして、頭が煮えるように熱い。胸が押し潰されそうなほど苦しくて哀しい。
 ぼろぼろと涙が止まらず、なんとかもがいて、アゲハは必死で慧生から顔をそむけ、腕をふりほどいた。
「なんでっ……あなたには、美玲羽さんがいるのに……なんで、僕にキスなんてするんですか……なんで……ッ」
 この人は僕のものじゃない。この唇も腕も、僕のものじゃない。
「僕は、馬鹿だから……こんなふうにされたら、期待してしまうからっ……やめてください。期待、させないで……っ」
 怒濤のように込み上げてきた感情に自分でも混乱し、悲鳴のように口走ってしまってから、猛烈に後悔する。
 だって彼は悪くないのに。いたわってくれているだけなのに。アゲハが好きになる前から慧生には美玲羽がいて、アゲハが勝手に横から好きになっただけなのに。
 子供のように情けなく、アゲハは涙でくしゃくしゃの顔を手で隠して、ひっくひっくとしゃくりあげた。
「ごめっ……ごめん、なさい……ぼくが、さいしょに、あなたにキスをしたからっ……だから、それだけなの、わかってます……ごめんなさ……ごめんなさい……」
 自分でももう、ケースから目覚めた最初の夜に、どうしてあれほど簡単に彼にふれてキスができたのか分からない。たった一週間前のことなのに。あのときよりずっとずっと、今の方が彼のことを好きで、指先がふれただけで火傷しそうに熱くなって、吐息がかかるだけで眩暈がする。たった一週間で、こんなに気持ちは変わるものなのかと、自分でも驚く。
 慧生は黙り込んでいる。当たり前だろう。抱き締めてほしいと要求されて、それを叶えて、きっと彼としては気軽な気持ちでキスをしただけなのだから。彼は大人だから、きっとむずかる子供にアメを与えたようとしただけなのだ。
 ふう、と、慧生から溜め息が聞こえた。長いようで短い沈黙の後、彼は口を開いた。
「……美玲羽とは、もう別れるよ」
 涙が止まらずしゃくりあげていたアゲハは、耳を打ったその言葉に、目をぱちくりさせた。
「え……?」
「いや……だからって、おまえにこんなことをしていいってことにはならないけど。ごめん」
 見ると、慧生は決まり悪そうに、どこか子供っぽくも見える表情で、顔をそらしていた。
 思わぬ反応と言葉に、アゲハは頭が混乱する。けれど耳に、彼の宣言ははっきりと残っていた。
「美玲羽さんと……おわかれ、するんですか……?」
 慧生が翡翠の瞳を持ち上げる。真っ直ぐな翡翠の色は鮮やかに透明で、アゲハの心臓がまた射貫かれたように高鳴った。
「そうする。これ以上は、もう無理だから」
 繰り返しひとりで悩み、考え続けてきたのだろう。それだけを言う慧生の声音に迷いはなく、一瞬伏せられた瞳に、押し殺したような痛みがよぎった。けれど痛みよりも、強い意思の方が上回っているように、その眼差しは澄んでいた。
「そう、なんですか……」
 それは素直に喜ぶには、感情の入り乱れすぎた宣言だった。慧生がどれほど彼女のことを想ってきたのか、彼女の存在がどれほど慧生にとって大きいのか、アゲハは少なからず見知っている。
 けれど、彼が苦しんでいると分かっていても、美玲羽と別れるという宣言は、アゲハを安堵させた。二人のことを考えると、胸の奥がねじれるように、美玲羽が羨ましく妬ましかったのだから。
 こんな自分は醜くて、あさましい。けれど、どうしようもなく嬉しい。だからといって慧生が自分のものになるだなんて思わないけれど、でも、慧生が「特別な人」を切り離してひとりになるということに、どうしようもなく安堵する。
 ようやく少し落ち着いてきた頭を、アゲハはフと悩ませた。
 ​​​──あれ? でも、美玲羽さんがいるのにキスなんかしないで、と訴えたあとに、美玲羽さんとは別れると告げてきたって、どういうことだろう。いや、何も深い意味はなくて、言われたから答えただけなのかもしれないけれど。
 慧生を見上げる紅い瞳が、どきどきと戸惑いながら、熱を持った。
 慧生さんは、なんで僕にキスなんてするの? あなたが好きですと言う僕への、ただのいたわり?
 その答えは出ていないままで、落ち着かない胸を押さえながら見上げていたら、慧生が瞳を細めるようにしてアゲハを見返した。
「キスしていい?」
「な、なななっ……ッなんで、ですか……?」
 心臓が跳び上がりそうなほど動揺して、アゲハはたどたどしく問い返した。慧生は考えるように少し目を伏せ、答えた。
「……わからない。でもおまえは、可愛い」
 再びその目を持ち上げて、慧生は続ける。
「嫌ならしない。無理矢理は、好きじゃないから」
「……っ……」
 わからないって言うくせに、嫌ならしない、なんて卑怯だ。アゲハはきゅうっといちばん上のボタンを押さえるようにして、瞳を潤ませてしまった。
 嫌なわけがないのに。僕が慧生さんを拒否なんかできるわけがないのに。
 わからないと言われても、可愛いと褒めてもらえれば、嬉しさがこみあげて目の奥が熱くなってしまうのに。
 頭がぐつぐつと煮込まれたように熱くて、きちんとものを考えられなくて、でも慧生の方からアゲハに一歩近付いてきてくれたようで、それが泣きたいほど嬉しくて。
 こくり、と小さく頷いたら、彼の指がアゲハの顎先をちょっとだけ上向けた。彼の方から身を乗り出してきて、優しく、唇を重ねられた。


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