cats and dogs

‐original BL novels‐



Farasha (3)

   § : L.D.01 「Farasha」
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 夢見心地に、いくつかの音が聞こえていた。何かは分からないが、日常的によく聞き覚えている類いの生活音。
 それらの中に時折、しゃらんという涼やかで軽い金属的な音が混ざる。控えめで小さな物音に、煩わしさよりも心地良さと、どこか安堵感を覚える。
 瞼の裏に明るさを感じ、そう認識したときには、慧生は目を覚ましていた。
 横たわっていたのは、ここ数日の寝床になっている居間のソファだった。見慣れた天井と照明。室内灯は灯っておらず、窓の外は明るくなっていた。
 アルコールを摂取して眠り込んだ後特有の、強い喉の渇きがあった。起き上がることもだるいが、二度寝するには喉が不快に渇きすぎていた。
「…………だる……」
 無理矢理身動きし、ようやく起き上がる。頭に霞がかかったようで、長すぎる前髪がばさりと落ちてくる下で額を押さえた。
 視界を妨げる黒髪の下で瞬きし、その視界の中にある眺めに、慧生は次第に目を見開いた。
「……あ?」
 この一ヶ月ほどは特にひどくなっていた室内の荒れっぷりが、転居してきた直後のように綺麗に片付いていた。
 散乱していたゴミは塵一つ残さず取り除かれ、散らかっていた雑貨はまとめてテーブルの脇に置かれている。テーブルは拭かれて、綺麗に洗われた灰皿が載せてあった。洗濯したまま山積みになっていた衣服はたたまれ、あるいはアイロンをあてた上でハンガーに掛けられている。床に脱ぎ散らかしてあったものは、どこにも見えなかった。
 窓にはレースのカーテンがかかっており、その上から遮光カーテンが半分ほど引かれていた。レース越しの景色は雨色に滲んでおり、明かりの付いていない室内は随分薄暗かった。
 窓の外の音は、何も聞こえてこない。空気清浄機の立てるごくかすかな音と、浴室や洗濯機のある方向から控えめな物音が聞こえるだけだった。その物音が目覚めたときからずっと聞こえていたことに、そこでやっと慧生は気が付いた。
 誰かがいる。​​​──まさか美玲羽が?
 反射的にその姿を思い浮かべ、瞬間、寝起きで気が緩んでいた不意をついて、怒濤のように感情があふれ出してきた。
 ​​​──愛しいような恋しいような、それ以上に強烈に臓腑を焼く、吐き気がするような感触。
 一瞬の、けれど痛烈にすぎる感情の嵐に息を飲み、慧生は身を竦ませた。ソファについた手が震え、強張った背筋に冷たい脂汗が浮かぶ。
 それから十も数えないうちに、軽く静かな足音がリビングに近付いてきた。
 よく聞き慣れた美玲羽の足音ではない。それを認識したことで、慧生は一瞬で自分を捕らえた呪縛から、悪夢から覚めるように解放された。
「あ。おはようございます、慧生さん」
 開かれた室内ドアから、そんな明るい声と共に、真っ白いふわりとした姿が現れた。
 そこに現れたアゲハは、華奢な身体の上に明らかに大きすぎる白いシャツを一枚だけ纏っていた。シャツは昨夜慧生が投げ渡したもので、小柄な少年にはサイズが随分大きく、太腿が半ばほどまで隠れて、まるで丈の短いワンピースのようになっている。
 アゲハは長すぎる袖を捲り上げていたが、かなり捲って、ようやく手首が覗いているほどだった。だぼだぼのシャツの襟元には、銀色の細い鎖のついたタグプレートが煌めいていた。
 その白い少年の姿に、慧生は今しがたの抉るような感情の名残りも消し飛び、ぽかんと目を奪われていた。その白い姿はあまりにも綺麗で穢れなくて、それこそ陳腐にすぎる表現だが、人外の妖精だか天使だかのように見えた。
 そんな慧生をよそに、アゲハは奥のシステムキッチンに移動し、硝子のコップに冷水を汲んで慧生の元へやってきた。フローリングの床に両膝をつき、コップを差し出しながら、アゲハは虹色を帯びた真紅の瞳で案じるように慧生を見上げた。
「ごめんなさい、騒々しかったですか? お水、よかったらどうぞ」
「ああ……いや」
 慧生はコップを受け取りながら、ようやく徐々に昨夜の出来事を思い出していた。
 ほどよく冷えた水は、何かが詰まったような喉や胸に心地良かった。ほとんど一息でコップの水を飲み干してしまった慧生に、アゲハは昨夜と変わらない、おっとりめの声で問いかけた。
「もう少し飲みますか?」
「……いや、もういい」
 まだ頭はかなりぼんやりしていたが、冷水のおかげでだいぶ目は覚めていた。慧生はごく無意識にアゲハの手にからになったコップを返しながら、整然と片付けられた室内を眺めた。
「おまえが片付けたのか?」
「はい。あんまり散らかっていたもので……」
 まったくもってその通りなアゲハの言葉に、慧生は返す言葉もなかった。
 なんとなく視界に入った時計を見ると、もう正午を大きく回っていた。
 随分ぐっすり眠ったことに、自分で驚いた。慢性的に不眠気味ではあったが、ここ一ヶ月ほどは特にそれがひどくなっており、正体を失うほど酔ってようやく眠れるような状態だったからだ。
 昨夜慧生が眠ってしまってから、アゲハは物音を立てないように細心の注意を払いつつ、荒れ果てていた室内を片付けてくれたのだろう。眠れたせいもあるのか、久し振りにまともな生活環境に戻った気がした。
「明らかにゴミというもの以外はそこにまとめて、手をつけていません。水まわりのお掃除は、今すんだところです。それと、今お洗濯をしてますから、乾いたらたたんでおきますね」
「……ああ。うん」
「ごはんはどうなさいますか? あるものを使ってよければ、僕が作りますけど」
 物柔らかな声で問うアゲハに、慧生はその真紅の瞳に視線を戻した。アゲハの大きめの瞳は、雨天の弱い光にも透けるほど澄んで、明るく真っ直ぐに慧生の顔を見上げていた。
 その不思議な虹色を帯びた瞳に、少しの間また目を奪われてから、慧生は毛布をよけて立ち上がった。歩き出すついでに、アゲハのふわりとした白銀の髪に覆われた小さな頭を、くしゃりと撫でた。
「先に、シャワー浴びてくる。ありがとな」
 ぱちぱち、とアゲハが瞳を瞬き、と思うと歩いてゆく慧生を見返って、こぼれんばかりの笑みで顔をいっぱいにした。アゲハは立ち上がると、白い素足でぱたぱたと慧生を追いかけてきた。
「おふろですか? お背中を流しましょうか?」
「いや、いい」
 昨夜寝る前にシャワーは一度浴びていたが、どこか酒が残っているような頭を切り換えたかった。慧生は足を止めないまま、声を返した。
「出たら食べるから、あるものでいいから適当に作っててくれ」


「すみません。何か作れたら、と思ったんですけど……」
 バタートーストとハムエッグ、という二枚だけの皿を前に、テーブルの角を挟んだ斜め横の床に正座をしたアゲハが、しょんぼりとした様子で言った。
「いや。充分だよ」
 リビングのテーブルを前に、ソファに座った慧生は、心からそう返す。
 最近冷蔵庫にほとんど食材を入れた記憶がなかったし、卵とハムがあっただけましだろう。インスタントだったが、コーヒーもスープもきちんと用意されている。コーヒーには、砂糖とミルクも個別に添えてあった。野菜成分が著しく欠乏しているのは間違いなかったが、そもそも慧生が食材を確保していなかったのだから、贅沢は言えなかった。
 慧生の好みが分からなかったからだろう、ハムエッグには何も味がついていないようだ。かわりに、塩やら醤油やらケチャップやらソースやらマヨネーズやらが手当たり次第並べてあった。
 慧生が醤油をかけるのを見て、アゲハが口を開いた。
「慧生さんは、目玉焼きにはお醤油な人ですか?」
「ん? ……まぁ、気分?」
「じゃあ、これはかけないっていうのは何でしょう」
「……ソースとマヨはないな」
「わかりました。あ、焼き加減はいかがですか?」
「ん……こんなもんでいい」
 目玉焼きは、好みの加減でほどよく半熟だった。
 慧生の言葉を聞いたアゲハが、ひときわ嬉しそうに笑った。緊張感のかけらもない朗らかな顔で、幸せそうに慧生を眺めながら、ちょこんと座っている。
 慧生はトーストとハムエッグを口に運びながら、この状況に居心地の悪さを感じていない自分に気付いた。人と一緒に食事をとることに抵抗はないが、いくらなんでもこんなにじっと見られていたら、普通だったら落ち着かないものだが。
 ​​​──こいつがアンドロイドだからかな。それとも、こんな仔犬みたいだからだろうか。
 相変わらず尻尾をぱたぱたいわせているのが見えるようなアゲハを眺めながら、ぼんやりと思った。
 ふと思いつき、慧生はトーストを一口の大きさほどにちぎった上にハムエッグを乗せ、アゲハの口元に差し出した。長身なことに比例して慧生は腕も長く、無造作に伸ばしただけで届く。
「え」
 アゲハは驚いたように瞳を瞬かせたが、すぐにとろけるような笑顔になって、唇を開けてはむとトーストを食んだ。
「はむ……ん」
 アゲハは口もあまり大きくないようで、白い手を添えてはむはむと美味しそうに、何口かに分けて食べてゆく。すべて飲み込んでしまうと、アゲハは満足そうな笑顔を、にぱっと慧生に向けた。
「美味しい」
「​​​──あ」
 そこで今さらながら、慧生はあることに気がついた。
「そういやおまえ、もの食っても平気なの? てか、食えるの?」
 食えるのかも何も、今実際に食べていたのだから、その機能はあるのだろうけれど。
「食べられますよ。僕の動力源は水ですけど、食物を消化分解してエネルギーに変換することもできます。でないと、一緒にお食事ができないでしょう?」
 アゲハの説明に、慧生はそれもそうかと納得した。
 奉仕型アンドロイドの需要は、幅広い。業務型アンドロイドと違い、多くはまさにマスターの生活に寄り添うように、家族の一員や恋人そのもののように過ごす。つまり人間の三大欲に、それだけ密着した機能を所有している。本来は眠ることも必要ではない彼らだが、擬似的にそういった状態を作り出すことも、勿論可能だった。
 慧生は黙々と食事を続けながら、見るとはなしにアゲハの胸元を眺めた。大きすぎるシャツの下に隠れているその胸の奥には、仕様書によれば人間でいう心臓がある位置に、超小型高性能の動力ジェネレーターが組み込まれている。水を分解して水素を生成し、高エネルギーを発生させて半永久的な駆動を可能にするそれは、いわばアゲハにとっても、命の源である「心臓」だった。
「ん」
 慧生はまたなんとなく、ちぎったトーストにハムエッグを乗せて差し出した。アゲハは嬉しそうに、素直に唇を開いてそれを口に入れる。
 自分の手から美味しそうに食べているアゲハの姿に、雛に餌付けする親鳥みたいだなと、慧生は妙に呑気なことを思った。
 こんなふうに落ち着いた気持ちで時間を過ごすのは、随分久し振りのような気がしていた。


「……出ねぇ」
 何度呼び出しても相手が一向に通話に出ず、慧生は思わず携帯電話のディスプレイを睨み付けた。鷹司礼二、とそこには名前が表示されている。
 時間を置いて何度かコールしているのだが、まったく反応がない。忙しいのかもしれないが、通話に出られないにしても、何かしら合い間にメッセージくらいはできるはずだ。
 礼二のことだから、どうせ慧生との接触を避けているだけだろう。さすがに今回のようなケースでは文句の一つも言われると、あの破天荒な叔父も分かっているはずだ。分かっていながら平然と敢行し、あまつさえ文句を言われる前に接触を断つあたりが、あのひたすらマイペースな叔父らしい。
 諦めの境地で溜め息を吐き、ひとまずアゲハを「受領」したことと、意図は了解したことを手早くメッセージすると、慧生は携帯をしまった。
「……慧生さん……」
 と、傍らからじいっと見上げてくる白い小柄な少年の眼差しに、慧生はそこでやっと気がついた。
 場所は、相変わらずリビングだ。ただし慧生はバスローブ姿ではなく、あっさりしたスラックスとシャツ姿になっている。
 アゲハも慧生が貸した服を着ており、とはいってもサイズがあまりに違うので、シャツもだぼだぼだが、デニムのパンツもぶかぶかだった。慧生にとってはただのスキニージーンズであるその裾も、そのままだとあまりにも引きずってしまうために、何回も折り返されている。
 アゲハはじいっと慧生を見上げたまま、ほわりと夢見がちなような顔つきで呟いた。
「だらけた姿も良かったけど、ちゃんとした格好の慧生さんも素敵です……」
「は?」
 いきなりの言葉に慧生は眉をひそめたが、アゲハは構う様子もなく、慧生のシャツの裾をきゅうと掴んできた。
「僕も慧生さんみたいに、背が高くなってかっこよくなりたいです」
「……いや、おまえ成長しないだろ?」
「成長した姿のボディに、プログラムとメモリとクオリアシステムを移植すれば、それっぽくはなりますけど」
「なら、礼二さんにそう言ってみたら?」
「僕の容姿は鷹司先生の趣味ですから、まず無理だと思います」
「……ああ、そう」
 アゲハの外見については、純粋に綺麗で可愛いとは思うが、これを「性的対象」として見るのは慧生にとって難しい。こんなものをいきなり送りつけてきた礼二の思惑が、さっぱり分からなかった。
 単純な奉仕型アンドロイドとしてなら、唐突にはすぎるものの、まだ分かる。だがアゲハは、それだけにはとどまらず「セクサロイド」としての機能も所有している。
 そこに何らかの礼二の意図が無いとは、慧生には言い切れない。だが厄介なことに、礼二のやることは完全にまったく意味が無いこともあれば、その逆もある。つまり慧生には、礼二のやることが読めるようで読めなかった。
 ナントカと天才は紙一重とはいうが、あの叔父の場合は果たしてどちらなのだろう。
 どちらにせよ、アゲハをしばらく預かることは決定済であることだけは確かだった。
 まったく何のつもりなんだか、と考えながら、慧生はアゲハを連れてマンションの玄関を出た。
 とにかくあまりに食材が欠乏しているので、少しは何か仕入れて来る必要がある。荒れ放題だった室内が片付いた途端にそう思い立ったあたり、健全な生活環境というのは健全な精神状態を保つために、やはり大切なのだなと思う。
 このあたりは立地がよく、ほんの徒歩五分圏内に、駅や大型ショッピングモール、その他の生活に必要な施設や店舗があらかた揃っていた。街はすっきりと区画整理されており、公園や緑も豊富で治安も良い。人気のある大学の最寄り駅にもなっているため、学生街でもあった。
 マンションの側面から出ると石畳の小綺麗な路があり、あまり幅の広くないアーケード状になっていた。この細い路は駅まで続いており、その途中でショッピングモールに入ることもできる。雨模様ではあったが、この路を歩けば雨に濡れることもなかった。
 アゲハは明らかに大きすぎる慧生のスニーカーを、紐をきつく締めて無理矢理履いていた。何かあったら支えられるよう、かなり足取りが危なっかしいアゲハに合わせてペースを落としながら、慧生は灰色の雨空がアーチから透けて見える石畳の路を歩いていった。


 アゲハは慧生の傍らにぴたりと身を寄せながら、目に付くものすべてに対して、興味深そうに紅玉のような瞳をきらめかせていた。
 高級アンドロイドは優秀なAIを組み込まれ、生活に必要な基本的な知識も兼ね備えているものではあったが、後天的に様々なことを「学習」して「成長」してゆく機能も持っている。
 また「奉仕型」の高級アンドロイド達には、「より人間らしい」ランダム要素を持たせる為、個々のパーソナリティや情操を生み出す「クオリアシステム」に、あえて「ぶれ」や不安定さを与えられていた。
 環境や外部からの刺激によって、アンドロイド達は様々な影響を受け、変化し発達する。仮にまったく同じ環境下で育成したとしても、彼らはクオリアシステムの作用でまったく同じようには変化せず、どういったふうに「成長」するかは、たとえ製造者であっても完全に予測はできない。
 特に「奉仕型」とされるものは、「業務型」アンドロイドに比べてクオリアシステムに意図的な歪みを強く与えられているため、まさに人間のように個性が大きく豊かだった。明確な「個」と「人間味」を持ちながら、マスタープログラムにより「主人」に忠実で、真摯に尽くしてくれる奉仕型アンドロイドは、様々な方面から需要があり、パートナーとして人気が高かった。
 ​​​──だがそれにしても、アゲハのスペックがそういった一般的な汎用アンドロイド達とは段違いのものであることは、一目瞭然だった。
 小柄な身体には大きすぎる慧生の服を着込んで、興味深そうにあちらこちらを見回して瞳を輝かせているアゲハは、どこからどう見ても「生身の人間」だ。
 世の中にはいくつかアンドロイド製造メーカーは存在するが、アルファトリニティはパーツの提供はしていたものの、アンドロイド専用のブランドは持っていないはずだった。プロトタイプ、という礼二の言葉から察するに、アゲハはまさにアルファトリニティ社による新事業展開の先駆け、最新鋭次世代型アンドロイドの試作品、ということなのだろう。
 昔から慧生に何かと新製品のモニタリングを押しつけてくる礼二だが、それは慧生が文筆家であることや感性を、また社の機密を漏洩はしないということを、それなりに信頼している、ということではあるのだろう。
 だがそれにしても、こんなレベルのアンドロイドをこんな民間に放出していいのかと、他人事ながら慧生は心配になった。
 若者が多いこの街には、多くが黒髪黒瞳を持つ単一民族国家らしからぬ、様々な色の髪や瞳があふれている。だがアゲハの外見は、それらの中でも突き抜けて独特で、歩く先々で人目をひいていた。
 白銀の髪や真紅の瞳は透けるように美しく、さらにそこに帯びる虹色の光沢は他に類を見ない。瞳の大きな顔立ちは可憐で、表情は思わず笑みを誘われてしまうほど屈託がない。
 アゲハの服や靴を買いに立ち寄った服飾店では、どの店舗でも「その子はモデルかタレントなのか」と問われた。アゲハの華奢で小柄な身体つきと、夢のようにふわりとした色彩は、現実離れした妖精のような印象すら周囲に与えた。
 歩いているだけで注目を浴び、声をかけられたり、写真を撮らせてほしいと頼まれる。加えて一緒にいるのが「橘慧生」であることに気付いた者がますます歓声を上げ、途中で何度となく足止めを食わされることになった。
 さすがにげんなりした慧生は、サングラスで顔を隠し、声をかけてくる者がいても適当にあしらって足早に通り過ぎることにした。素直なアゲハは、そんな慧生の無愛想な対応に戸惑ってはいたようだが、どこまでも慧生至上主義であるらしく、何も言わずについてきた。
「素顔の慧生さんも素敵ですけど、サングラスもお似合いです……」
 などとアゲハは、また寝惚けたようなことを寝惚けたような顔つきで言っていたが、慧生はそれにも生返事をして、さっさと買い物をすませていった。
 アゲハには服や靴という自分の荷物を持たせ、ひとまず当座の食料とアルコールを買い込んで、帰路についた。
 あまりアゲハと会話をかわすこともなかったが、買い与えられた荷物を大事そうに抱えてにこにこしながらついてくるアゲハの様子はやはり可愛らしく、見ていると妙に和まされた。


 自宅に戻ってくると、まだ日没には間があったが、雨降りのせいもあって部屋はかなり暗くなっていた。
 アゲハは買ってもらった服や靴も嬉しいようだったが、今着ている慧生の服を脱ぎたがらず、まあ本人がいいなら今日のところはそのままでもいいかと、慧生も放っておいた。
 アゲハは引き続き献身的で、乾いた洗濯物をたたんだり、アイロンをかけたりしていた。
 状況がひとまず落ち着くと、やはり締め切りが間近に迫っている原稿のことが気になった。とはいっても、今回の依頼はほんの千文字程度のコラムだったから、気分と筆が乗りさえすればすぐに纏まりはするだろう。問題は、まったく気分も筆も乗らない、ということではあったが。
 リビングのソファに腰を下ろし、ノートパソコンを開いてあれこれと書き出しては消しを繰り返すうち、徒労感と苛立ちばかりが増殖していった。
 煙草を吸いたくなったが、吸ったらあの荒れ果てた部屋に逆戻りしてしまうような気がして、なんとかこらえた。
 慧生が煙草を吸っていたのは、もう数年前迄の話だ。辞めたはずだったのに、生活が荒れるにしたがっていつの間にかまた吸い始めていた。自分が煙草に手をつけるのは、極限までストレスが溜まったときのシグナルであると同時に、自分を律する一線が崩れる行為であるのだということを、今回の件で慧生は学んでいた。
「どうぞ」
 こめかみを押さえながら、何度目とも知れない溜め息をついたとき、ふわりとした芳香と共にコーヒーの入ったマグカップがテーブルに置かれた。
 顔を上げると、アゲハが柔らかな微笑を慧生に向けていた。
「コーヒー豆も買ってくればよかったですね。今度は忘れないようにしましょうね」
「……ああ。うん」
 曖昧に返事をしながら、慧生はマグカップを見た。
 インスタントでも、香りだけはやたらと良い。慧生は添えられていたミルクを入れ、カップを取り上げて口に運んだ。
 コーヒーを飲みながらディスプレイを睨んでいた慧生は、傍らからじいっと見上げてくるアゲハの様子に、ふと気が付いた。
「何?」
「いえ……普通の眼鏡姿もいいなぁって。慧生さんて、なんていうのか、居住まいにうっすらと緊張感があって。綺麗ですよね」
 白い頬を薄ピンクに染め、平和そのものの顔で呟いたアゲハに、慧生はコーヒーをむせかかった。
 視力が良いとは言えない慧生は、自宅でものを書いたり読んだりするときは、基本的に眼鏡をかける。緊張感だか何だか知らないが、今朝までの自堕落極まる状態を見ていながら、なぜそうなるのだろう。なんだかもう、どれだけ慧生至上なプログラムがアゲハに組まれているのか知らないが、ここまで臆面もなく言われると突っ込む気にもなれなかった。
 見ると、いつのまにか窓の外が真っ暗になっていた。慧生は溜め息をつき、いったん休んで頭を切り換えようと、ノートパソコンを閉じた。
「コーヒーありがとな。それと、軽くでいいから何かメシ頼める?」
 食事を作ることも、むしろ食べることさえ、正直を言えば今の慧生には億劫だったが、ここ一ヶ月は特にひどかった不摂生をこのまま続けるのも望ましくないことは分かっていた。そう考えられるようになっただけ、まだましだろう。そして慧生がそんな気分になれたのは、この白い少年のかいがいしい世話のおかげでもあった。
 アゲハがぱちぱちと大きな瞳を瞬かせ、かと思うと顔全体を大きくほころばせた。
「はい。何か食べたいものはありますか?」
「脂っこくない方が助かるな。なんでもあるものを使ってくれたらいい」
「わかりました。じゃ、何か食べやすそうなものを作ってみます。待っててくださいね」
 いそいそとキッチンに立ってゆくアゲハを見送りながら、慧生は妙に気が抜けてしまったのを感じていた。
 そのとき、パソコンの傍らに置いておいた携帯電話にメッセージが入った。
 礼二がやっと返してきたかと、何気なくメッセージを開いた慧生は、しかし予想外の内容に硬直した。
 ​​​──いや、知ってはいたのだ。今日は「これ」の結果が発表される日だということを。アゲハのことで随分気が紛れていたせいもあり、頭の片隅に覚えてはいたが、わざと思い出さないようにしていた。そうして「結果」が慧生にとって安堵できるものであれば、また彼女と​​​──美玲羽とやり直せるかもしれないという惨めであさましいことすら、どこかで考えていた。
 メッセージの差出人は、慧生自身も世話になっている出版社の担当からだった。そこが主催している文芸新人賞の最終選考結果を開示する速報には、「日下美玲羽くさかみれは」という受賞者の名前が、見間違いようもなく掲載されていた。


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