cats and dogs

‐original BL novels‐



Farasha (1)

   § : L.D.01 「Farasha」
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【約40000文字、読了時間約80分】
アンドロイド/青年と少年/ほのぼの主従/自堕落な大人/健気/ピュア/一途/純愛/
自堕落に漫然と日々を生きていた、スランプ中の若手作家・橘慧生たちばなけいきの前に、ある日突然現れた一人の「白い少年」​​​──人と区別がつかないほど精巧なアンドロイドの「アゲハ」。
癒やし系のアゲハと過ごすうちに、慧生は困惑しつつも、少しずつ鬱屈していた心を解かれていきます。
そしてアゲハの中に溢れる真っ直ぐな想いにふれた慧生は、自分が知らず「機械」であるはずのアゲハの「心」を傷つけていたことに気付き…



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 冷たい夜を憂う貴方の為に、
 僕は水の中で目を覚ます。
 優しい水を離れた幼い僕は、
 貴方という光と孤独を知る。
 それでも僕は、水の中には還らない。
 この灰色に霞む世界を、
 貴方の言葉だけが彩ってくれたから。

        ◇

 橘慧生は、ただひたすらぽかんと口を開けて、目の前にある​​​──いや、「居る」と表現するべきか、とにかく「それ」を眺めていた。
 ついさっきまで特殊合金製のケースの中に横たわり、膝を抱えて丸まっていた「それ」は、今は当たり前のように慧生の目の前に起き上がっていた。
 抜けるように真っ白い肌、簡単に折れそうな華奢な身体。いかにも柔らかそうな素肌には、何一つ身に着けていない。年齢は十五か六かそのあたり。やたらと綺麗な顔だけ見れば少女なのか少年なのかも分からないが、その薄い身体は男性のもの。
 ふんわりとした、耳やうなじが隠れるほどの髪は、虹色を帯びた白銀とでも言うような不思議な色あいをしていた。そして睫毛の長い大きめの瞳は、これもやはり虹色を帯びたような、吸い込まれそうに鮮やかな真紅だった。
「…………は…………?」
 慧生はただ馬鹿のように口を開けて、その「白い少年」を見返していた。
 脆く儚く穢れなく、生身だとか体温だという生き物なら当然の要素が極めて薄そうな現実離れした印象は、硝子細工のような、という表現がぴったりだ。
 ぽやん、とどこか眠たげな顔をしている白い少年の首元で、銀色の何かが明かりを反射した。身に纏っているものは何もない中、唯一少年が身に着けているもの。細い鎖で細い首に掛けられた、銀色のタグプレート。
『AGEHA』
 と、そこには素っ気無いフォントで刻まれていた。


 ​​​──その場面よりも、時間はいくらか前に遡る。

 苛立ちの根源でしかない「その日」が目前に迫った、ただでさえ碌でもない一日。慧生は、思い切りうんざりしていた。
 大学生の頃から仲違いを繰り返しながらも付き合ってきた美玲羽みれはと、あーこりゃ今度こそ駄目だなと思う大喧嘩をしたり、締め切りが間近に迫っている原稿がまったく進んでいなかったり、目覚まし代わりにしている携帯電話のアラームがなぜか鳴らなくて打ち合わせに遅刻しそうになったり、帰りがけに雨が降り出してずぶ濡れになったり。
 とにかく、大なり小なりろくでもないことに埋め尽くされた一日だった。 
「はぁ……だっる」
 ようやく足を引きずるように一人暮らしのマンションに帰宅すると、あたりは既に暗くなっていた。
「…………ダルイ」
 自宅のドアから玄関に入るなり、慧生はずるずると壁に凭れつつしゃがみ込んだ。溜め息と、そんな非建設的極まりない無気力な言葉しか出てこない。
 まだ気温がそこまで高くない春先の雨は、薄手の上着とシャツにまで染み込んで体温を奪っていた。濡れたままではまずいだろうと思う一方、このまま寝込んだってどうでもいいよなぁ、と思う。
 なのに、未完成どころではない原稿のことが頭の片隅に引っかかり、結局さらに深々とした溜め息を連れて、のろくさと立ち上がりバスルームに向かった。
 衣服を脱衣所に適当に放り出してバスルームに入り、頭から熱めのシャワーを浴びる。ざっと汚れを落とし、冷えていた身体が温まるのも待たずに出た。服を着ることも面倒で、脱衣所の棚から普段は使うことのないバスローブを引き出して羽織った。
 ろくに身体も拭かないまま、ぽたぽたと水滴を落としながら、だだっ広いリビングに足を向ける。がらんと天井の高いリビングに入ると、センサー反応で勝手に明かりが灯った。
 慧生は真っ直ぐ部屋の奥にあるシステムキッチンに向かい、大きな冷蔵庫から何本か缶ビールを持ち出した。美玲羽が好んだのもあり、冷蔵庫には食材はなくてもビールは常に冷やしてあった。
 とにかくアルコールが欲しく、この際はもう酒なら何でも良かった。その場で開けて飲みながら、リビングのソファに移動する。どさりと座り込んで、何も考えずに三本ばかりを一気にあけた。
 天井から床まである大きな窓からは、その外にあるルーフバルコニー越しに、雨に滲む広い夜景が見えていた。雨雲のせいだろう、完全に陽の暮れた空は真っ暗に閉ざされている。防音性が高い室内には雨音も届かず、また物音を立てる者が慧生自身の他におらず、自分の呼吸の音さえ耳につくほど、しんと静まり返っていた。
 カーテンが半端に引かれたままの大きな窓には、我が家ながらひどい有り様になっている室内の様子が映り込んでいた。
 ここはそれなりのマンションであるだけに造り自体は立派で、間取りも広い。造り付けの棚やクローゼットだけで収納はほとんど足りており、それ以外は最低限の電化製品や家具が置かれているにすぎず、片付いているといえば聞こえはいいが、「生活感がない」と美玲羽はよく言っていた。
 あまりに味気ないのもどうかと、ちょっとしたインテリアや観葉植物なども多少は設置してみた。それらのおかげでまだしもそれなりに整って見えていた室内は、しかし今、そのささやかな恩恵からも完全に見放されていた。
 居室のあちらこちらに、あらゆるゴミや出したまま片付けていない様々な雑貨が散らかり、脱いだままの衣服が散らかり、ビールの空き缶が転がり、灰皿からは山をなした煙草の吸殻と灰があふれている。
 ホームマネジメントシステムを動かして掃除をしようにも、要る物も要らない物もここまで滅茶苦茶だと、それ以前に一度人間が手を入れなければシステムが誤認や誤作動を起こすだろう。どれほど技術が進歩しても、やはり最後に頼りになるのは「人間の繊細な配慮と人間による細やかな働き」で、むしろそれは世の中の機械化が進めば進むほど浮き彫りになっていったことでもあった。
 ひっでぇありさまだな。と、ソファに座り込み安物のライターで煙草に火をつけて咥えながら、窓に映った室内と自分の姿を、慧生はぼんやりと眺めていた。


 慧生は今年でもう二十八歳と、けっこういい歳になる。「職業は?」と問われたときは、職業ではなく著作名を言えば大抵の者は「ああ」と把握する程度には、名前を知られていた。
 大学在学中に名のある文芸新人賞を取って文壇デビューを飾り、その後執筆した長編が伝統的な文学賞を受賞、一躍有名になった若手作家。
 文学賞以降は、一本の長編小説と短編集、他にはたまに散文的なものしか書いていないにも関わらず、コンスタントに慧生の著作は売れ続けている。ちょくちょく雑誌や新聞からも寄稿依頼があり、それらがまとまって編纂されたりもするおかげで、順調に収入があった。実家に頼らずとも、このマンションを購入し、あとは無駄な浪費さえしなければ一生困らないだろう程度の蓄えもできた。
 慧生の実家は由緒ある財閥の流れをくむ名家で、父親を中心に大手グループ企業を経営している。慧生はそんな家系の四人兄妹の末っ子、二人の兄と一人の姉を持つ三男として生まれた。
 それだけでも破格の恵まれ方だが、加えて家族仲も非常に円満だった。末っ子である慧生は、家族親類中に溺愛され、それはもうちやほやされて育った。
 父は経営に関わることを強要はしなかったが、やはりその道に進むことを期待されてはいた。幼い頃から文章を書くことが好きで、それは既に生活の一部だったが、趣味で生計を立てようとは考えたこともなかった慧生は、特に悩むこともなく経済学部に進んだ。
 そんな中、気の向くままに書いていた長編小説が仕上がり、学生時代の記念にと公募に出したら、それが当たってしまった。
 その後さして間を置かずに書いた一作が文学賞を取り、それがベストセラーになって、あれよと言う間に「人気作家」になっていた慧生だが、その道に進むかはさすがに悩んだ。惜しみなく教育に投資してくれた父への、配慮や感謝もあった。
 しかし、その父を始めとする親類縁者はこぞって慧生が文筆家としてやっていくことを歓迎した。よくよく考えた末に、これも巡り合わせだろうと、最終的に慧生は作家の道を選んだ。
 世間の連中がさぞ羨ましがるだろう、いわゆる非の打ち所のない完璧なまでの勝ち組​​​──そんな認識を、自身の境遇に対して慧生は持っていた。
 しかも慧生は、我ながら外見にも恵まれていた。長身で身体つきのバランスが良く、顔立ちは「端正で目許が涼しく、しかし絶妙に抑えた色気がある」などと評され、切りに行くのがだるいだけという単なる自堕落の結果でしかない長めの黒髪も、生来の髪質が良い為にそうは見られず、むしろ「若干ルーズなところが良い」などと言われる始末。
 そして奔放な人間が多く国際結婚も多かった家系故に、どこかで混ざった異国の血が慧生の瞳に深い翡翠の色を与え、それがまた目を引く個性となっていた。定期的なジム通いで鍛えてもいたが、生来の見た目の良さは、やはり持って生まれた財産と言うべきものだ。
 自分がやたらに有望な若手作家として持ち上げられた事情の一端には、間違いなくこれらの「まぁ悪くない外見」、当時の「現役大学生」という肩書き、何よりも「出自」が関わってはいるだろう、と慧生は認識していた。
 実際、華やかな文壇デビューの裏で、口さがない連中の囁きを、慧生はそれこそ飽きるほど聞かされていた。
「橘慧生の書くものは、所詮学生レベルの子供騙し」
「あんなものは、外見と肩書きと後ろ盾が派手なだけの、ただのアイドル人気だ」​​​──と。


 ……まぁ、アイドル人気は、実際その通りだろうしな。
 ぼーっと煙草をふかし、機械的にビールを喉に流し込みながら、バスローブの前も留めていない自堕落そのものの格好で、慧生はソファに座り込んだまま考えていた。
 確かに自分は、何から何までに恵まれた「勝ち組」だ。
 勝ち組ではあるが、「自分自身で勝ち取ったもの」など、それほどあるわけではない。
 家柄も外見も「与えられたもの」でしかなく、幸いそこまで必死にならずとも成績もそこそこで、将来はグループ系列企業のいずれかに配属されるのだろうと思いながら、某名門私立大にさしたる苦労もなく進んだ。
 あっさりと実現した文壇デビューと文学賞受賞、その後の持ち上げられっぷりに到っては、慧生自身さえ「裏で実家の力が働いているのではないか」と勘繰っているくらいだ。
 確かに、昔から文章を綴ることは好きだった。それこそ慧生にとっては呼吸することと同じ、生きる上でなくてはならないものだった。
 だがそれだからこそ、ただ好きなように書き綴っただけのものが新人賞を通り、文学賞を取るとは、予想していなかった。フリーライターと編集を精力的に兼業している美玲羽の方が、自分よりもよほど良い文章を書くと、正直なところ考えている。
 文壇に認められた以上は、それだけのものがあったのだ、と信じたい。だがどうしても、「そもそもあれは出来レースだったのでは」という疑念は、慧生の心の底から消えなかった。
 挙げ句にここ数年、ぱったりと慧生は新しい長編小説を出していなかった。いつ頃からか次第にスランプに襲われ、まともに小説が書けなくなり、今では短いエッセイやコラムを書くことにも手こずっている。長編小説の新作を出版社にどれほど熱心に催促されても、「構想と取材に時間がかかっているんです」と、もっともらしいことを言ってかわすしかなかった。
 ​​​──まったく、「作家」を名乗っているくせに新作を出さないなんて、我ながら良いご身分だ。
 この調子では、いずれ「橘慧生が小説を書かない」ことをマスコミや評論家が叩き始めるのも時間の問題だろう。書いても書かなくても叩いてくる連中は、よほど暇なのか、よほど人の不幸を見て笑いたいのだろうか。
 そんなことを自嘲しながら考えていたら、徐々にアルコールが回ってきて、ただでさえぼんやりしていた頭の巡りが、ますます緩慢になってきた。
 とにかくツイてない一日だった今日のあれこれを、ビールと煙草を消費しながら、とりとめもなく回想する。何をする気にもなれない不毛な時間が、時間が流れているという感覚すらないままに漫然と経過してゆく。

 ​​​──そんなときだった。柔らかなインターホンの音色が、がらんと荒れた部屋の中に響いたのは。


 数分後。
「……なんだ、これ」
 宅配業者が置いていった謎の大荷物を前に、慧生は困惑していた。
 一見した印象は、縦横比といい厚みといい、大きめのスーツケースといったところだ。
 人間一人くらいすっぽり入るのでは、というくらいの大きのそれは、しかしスーツケースに似ているというだけで、実際には違う用途を持っているのだろうと思われる。全体に艶消しの施された特殊合金製で、むやみやたらに頑丈だった。
「どっから送って来たんだよ、こんなもん?」
 改めてラベルを見直したが、受取人は確かに自分だった。差出人には、どこかで覚えがあるような横文字の名称が書かれている。個人名ではなく、何かしらの団体名。しかし酔いがまわっているせいで、どこで見たのだか思い出せない。ちなみに酔ってはいるが、応対に出たときはさすがにバスローブの前は留めた。
 移動のためだろう、ケースはキャスター付きだった。とにかく放置もしておけないので、ケースを立てた状態のまま、フローリングの床の上をごろごろとリビングまで運んだ。車輪は柔らかい素材を使ってあるらしく、音も静かだったが床に傷がつくこともなかった。
 汚れ放題のリビングの床に乱雑にスペースを開け、とりあえず衝撃を与えないように注意しながらケースを倒す。人間でも入ってるんじゃないのか、と本気で思うほどケースは重量があり、これにはかなり苦労した。
「……って。どーやって開けんだよ、これ」
 倒したケースを前にしゃがみ込み、慧生は考え込んだ。
 こんないかにも厳重そうなケースに施錠もされていないとは思い難く、造りからしてこちらから開くのだろう部位を眺めてみる。かなり酔っているせいで、じっと目を凝らしてみても物が二重にだぶって見えた。
「ったく。わけわかんねー。まさか爆弾とかじゃねぇの、これ」
 頭がふらふらしてあまりまっとうに働いておらず、慧生は無性におかしくなってきて、大きなそのケースを前にへらへらと笑った。自分は爆弾なんて洒落たものを送りつけられるような要人ではないはずだが、酔った勢いでくだらない妄想がはかどった。
 ひとしきり笑い、もうこんなもんほっといていいかと思ったとき、ふとケースの隅についた小さなプレートが目に付いた。
「……あれ。これ」
 なんとなく、生体認証装置のリーダー部分に似ている。似ていると思ったときには、さして何も考えずにそこに指先をかざしていた。
 装置が反応したことを示すように小さなランプが点灯し、ぴっ、と電子音がした。案の定な反応を見せた様子を慧生がぼーっと眺めている前で、ケースの内部で何かが動き硬質な音がする。
 数秒も待たないうちに、空気さえ通さないだろうほどぴたりと密閉されていたケースの蓋が、ひとりでにカチリと薄く持ち上がった。
「……開いた」
 どうやら慧生の指紋が、解除キーとして設定されていたようだ。ここまで厳重なのに宅配、というアンバランスさに、若干の引っかかりを覚える。
 あれ。そーいやさっきの配送業者、どっかで見覚えはあるけど、あんま見ないロゴついてたなあ。ラベルになんて書いてあったっけ。と慧生が曖昧なことを考えているうちに、ケースの蓋が自動でゆっくりと持ち上がっていった。
 内部が見えてくるにつれて、慧生は考えていたことも頭から消し飛ばし、翡翠色の瞳を丸くした。
「へ……?」
 人。が、そこには横たわっていた。
 きちんと緩衝材の中におさまり、細い手脚を抱えるようにして、全裸の白い子供が眠るように丸くなっている。衣服は一切身につけていないが、首にやや仰々しいネックレスのような、細めの銀色の鎖が掛かっていた。
 身体つきからして、十五か六歳あたりの少年だ。瑕も染みもひとつも見当たらない、すべらかな真っ白い肌。髪の色は、ぱっと見ると白に見える、しかし光の加減で銀色を帯びる、同時に虹色の艶も纏って見える、一言ではとても表現しきれない不思議な色をしている。
 少年の瞼は、眠っているように閉ざされていた。白い長い睫毛がやわらかく伸びて、頬の上に繊細な淡い影を落としている。
「なんだ、これ……」
 予想の斜め上、などというレベルを突き抜けて想定外なケースの中身に、慧生はただ目を丸くしていた。
 ……これ、死体か?
 それにしては綺麗すぎるが。
 平凡な日常の中ではありえなさすぎる展開だったが、ひとしきり驚いた後、一周回って慧生の頭がそれなりに動き出した。驚きはしたものの動転するまでには到らなかったのは、相当に酔いが回っていたせいかもしれない。
 何はともあれ、死体だったらまずいだろう。いやまずいでは済まされない話なのだが、まずはそれを確認しなければと、慧生はその少年に手を伸ばしてみた。
 死体かもしれないと疑いながらも、あまりに綺麗すぎて死体とは思えなかった。ふれた指先には、若干冷たいと感じる程度の温度が返った。冷えているというよりも、これは室内気温とほぼ変わらない温度だろうか。
 少年の口元に持っていった手には、一切吐息がふれなかった。まじまじと見下ろす先でも、少年の身体はぴくりとも動いていない。呼吸に伴う僅かな動きすらない。
「……人形?」
 慧生がやっと、その可能性に気付いたときだった。微動だにしていなかった少年の睫毛が、タンポポの綿毛が微風に揺れるように細かく震えた。
「え」
 息を飲んで、反射的に手を引いた。
 慧生が凝視している先で、白い少年の唇がうっすらと開き、それと共に華奢な肩が僅かに動いて小さな吐息が零れた。
 少年の唇が細く空気を吸い込み、そして薄い瞼がゆっくりと持ち上がる。瞼の下から、白い肌に比して鮮やかにすぎるほどの濡れた真紅の瞳が現れ、何度か瞬きをした。
 目を丸くしている慧生の前で、丸く横たわった白い少年は、ケースの中で窮屈そうに身じろぎした。関節の形が浮き上がって見える肉付きの薄い腕が持ち上がり、ごく自然なゆるやかな動きで身体を起こす。白くふわふわした緩衝材が、まるで羽毛のように少年の髪や肩の上から舞い落ちる。
 そのルビーよりも鮮やかに深い真紅の大きな瞳が、眠たげに、しかし真っ直ぐに慧生に巡らされた。照明を受けて、その真紅の瞳にも、髪と同じような虹色の艶が反射した。
「…………は…………?」
 ケースの前にしゃがみ込んだまま、慧生は起き上がった白い少年の姿をぽかんと見返していた。しゃらり、と白い少年の首に掛けられた細い銀色の鎖が音を立てる。
 鎖には銀色のタグプレートがついていた。「AGEHA」というそこに刻まれた文字を確認し、慧生は無意識にそのまま口に出して読み上げていた。
「アゲハ……?」
「​​​──はい」
 声変わりしているかしていないか、という具合の柔らかな声が、少年の唇から返った。少女と言うには低めの、少年と言うには高めの、どことなくおっとりした細い響き。
 白い全裸の少年は小柄で、体格差の分だけ慧生を見上げたまま、春先の淡雪がふわりととけてゆくように微笑んだ。微笑ではあったが、虹色の艶を帯びる真紅の瞳を煌めかせた、顔全体でのこぼれるほどの笑顔だった。
「アゲハです。あなたが慧生さんですね?」
 ​​​──喋った。
 何だこれ、とぽかんとしながら慧生が思っていると、白い少年が身動きした。膝で立ち上がって、ケースの中から徐に、慧生に白い腕を伸ばした。
 慧生が身動きできなかったのは、あらゆる意味で想定外甚だしい事態にすっかり面食らっていたからで、何より目の前にいきなり現れた白い少年が、度肝を抜かれるほど​​​──率直に言ってそれこそ人形のように、あまりにも綺麗すぎたからだった。
 現実感の喪失した瞬間に、至近距離にルビーよりも赤く透明な、揚羽蝶の翅のような虹色の艶を帯びた瞳が見えた。両肩にごく軽い力で白い手がかかり、少年の色の淡い唇が、慧生の唇にかすめるようにふれた。驚くほど甘く。
「会いたかった……よろしくお願いします、慧生さん。あなたが僕のマスターです」
 吐息のような声でそう言った白い少年が、もう一度ふわりと微笑んだ。


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