cats and dogs

‐original BL novels‐



花舞いの岸 (三)

   § : 『INDEX/小説紹介』
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 翌朝になって目を覚ますと、全身が軋むように痛んだ。夜光は思わず寝床の中で呻きながら、重い頭をなんとか上げて、あたりの様子を窺った。
 たいした調度品もない部屋の中に、縁側に面して締め切られた障子を透かし、朝の白い光と鳴きかわす小鳥達の声が優しく満ちている。平穏そのものの光景と身体の痛みが結びつかず、夜光はしばし混乱した。
 そこはつい数日前に移ってきた、最玉楼の裏側にある小さな部屋だった。それまではずっと、長の住まう離れで長と一緒に暮らしていたのだが、夜光が「花」となることを契機に、こちらに個室を与えられて移ってきたのだ。
 ぼんやりしていた頭の中に、やっと昨夜あったことが甦ってきた。途端、夜光は紫色の瞳を見開き、自分で自分を抱き締めて大きく身震いした。素肌の上に、下腹の内に直接感じた巳汐の指や唇の感触を思い出し、全身をぞくぞくと悪寒が走り抜け、たまらず蒲団の中にうずくまる。ほんの数呼吸のうちに、昨夜の出来事がめまぐるしく頭の中を駆け巡り、夜光は呼吸がひきつりそうになった。
 昨夜のことは、途中から意識が朦朧としてしまって、よく思い出せない部分もある。だが生まれて初めて、身体が自分のものではないように強烈に燃え上がったこと、どうにもならない性の昂ぶりに翻弄されてその極みに幾度となく突き上げられたことは、記憶と身体との双方がいやというほど覚えていた。
 昨夜無理やり味わわされたものが、たがえようもなく快楽であったこと自体が、夜光の胸の中に強い嫌悪感を湧き上がらせた。もうこれで、身も心も今までの自分と変わってしまったと思った。
 ――いや、まだそれはいい。よくはないけれど、まだいい。これも代価だと思えば諦めもつく。
 他人の手で強引に刷り込まれた初めての強烈な感覚は、自分がこれから見知らぬ奈落に堕ちてゆくことを思い知らせた。全部覚悟をしていたつもりだったけれど、もう後戻りはできないのだということを、望みを叶えるためには本当に心身を投げ打たなければならないのだということを、昨夜の出来事が心底夜光に思い知らせた。そのことが何より夜光を慄かせ、震え上がらせた。
 もう、長のもとであたたかく庇護されていた自分はいないのだ。ひとりで勝手に決めてしまって、長の優しい手の中から離れてしまった。この世でただひとり、夜光を心から慈しんで安らがせてくれたあの優しい抱擁の中には、もう戻れないのだ。
 夜光は独り寝床の上にうずくまって、自分を呑み込み始めた途方もない暗闇に、震えながら嗚咽した。
 
 どれほど泣いたのか、時間もわからなくなるほど泣き続けて、頭と喉が痛み、やっと夜光は泣くのを止めた。そもそも昨夜あられもなく叫び続けたせいで、喉は元々いくらか嗄れていた。
 昨晩も泣き通しだったせいだろう、瞼も腫れぼったく、全身がぐったりしていた。重い手脚は、今頃気がついたが、それでもきちんと白い単衣の寝間着を着ていた。自身が快楽の中であさましく吐き出したもので汚れていた肌も、きれいに拭われている。自分で着たとは到底思えず、誰かが着せてくれたのだろうかと、今さらながら考えた。
 そもそもいつの間に、自分はこの部屋に戻ってきたのだろう。巳汐がここまで運んでくれたのだろうか。
 ふと枕元に、丸い盆に載せられて、水差しと薬湯らしき小さな土瓶があるのに気付いた。誰が置いてくれたのかは分からない。身じろぐだけでも億劫だったが、ひどく喉が渇いてもいた。
 思考が緩慢になっていたが、涙も枯れるほど泣いて泣いて、どこかがからっぽになったようで、つらくても少しでも身体に良いものを採らなければと、やけに冷静に思う部分があった。
 土瓶にかぶせられていた湯飲みを返して、どろりとした薬湯を注ぐ。鉛色をしたそれは苦くて渋くて飲みにくく、少し口に含んだだけで、思わずその不味さに舌を出し吐き出しそうになってしまった。
 だがその苦味が、かえって気つけになった。夜光は大きく息を吸い、深呼吸を繰り返して、思い切って一息にそれを飲み干した。


 夜光に与えられた部屋は狭く質素だったが、造り自体はしっかりしている。部屋は最玉楼の裏手、楼閣に勤める者達が住まう一隅にあった。部屋の前にはたいして広くは無いが縁側が通っており、障子を開け放てば美しい山水庭園が眺められた。
 まだ座敷にも上がっていない身でありながら、狭いとはいえ個室を与えられたことは、明らかに夜光が「長の養子」という身の上であるがゆえの特例待遇だった。本当なら、夜光のような客もまだ取れない下っ端など、大部屋で皆と雑居しなければならないところだ。
 けれど、育ち方が特異で人見知りが激しく、今までは長の離れでほとんど長とだけ接して生きてきた夜光にとって、この待遇は負い目を感じると共に、心底ありがたいことでもあった。
 夜光は軋むように痛む身になんとか鞭打って湯屋までいき、頭から禊のように冷水をかぶった。まだしも少しは、身も心もすっきりした。
 身を清めてから部屋で新たな着物に袖を通し、小物箱に大切にしまっておいた、あるものを取り出してみた。
 それは、透明な水晶の珠を連ねた数珠だった。小さめの珠が数えて百、少し大きめの珠は数えて十粒。小さな珠が十連なるごとに、間に大き目の珠が差し挟まれている。
 障子を通して届く光を受け、透明に美しく煌く珠の連なりを、夜光はしゃらりと白い指に絡めて持ち上げた。
 この数珠には――正確には夜光自身には――ある強いまじないが掛かっている。「百呪の願」と呼ばれるそれは、人を妖に、妖を人に、あるいは神にさえ変えてしまうことができる、強力だがその成就に尋常ではない「代価」を要求する稀有な術だった。
 今からひと月ほど前、この最玉楼を訪れていた一人の仙女に、夜光はその術を求めた。その術はその仙女が生み出したものであり、今のところ彼女以外に扱える者はいなかった。
 夜光は仙女に妙に気に入られ、本来はそうそう請け負わないのだというその術を施すことを許された。
 その術を請け負った証、術を刻む依代として、仙女は夜光にこの水晶の数珠を残していった。その透明なきらめきを指に絡め、夜光は紫色に沈んだ瞳で、じっと見つめた。
 生まれ持った種と性質を根底から覆すことは、世の理を覆すということ。それ故にその術は尋常でない代価を要し、者によっては邪術、禁呪とさえ呼ぶ。
 独りで考え、独りで選び、独りで決めた。花となることも、この願いを叶えるために必要な前段階のひとつにすぎなかった。
 ――花として生きるくらい、どうということはない。あの幼い日の、さんざん虐げられて生きた苦痛を思えば。
 そうは思っても、昨夜のことを思い出すと、どうしても怖気が走って身が竦んだ。夜光は怖気づきそうになる自分を叱責し、きりと唇を噛んだ。唇に痛みが生じたところで、はっとした。
 唇を噛んではいけない。と巳汐に言われたことが、頭をよぎった。
 歯を立てるように噛み締めていた唇を、夜光は緩めた。そのかわりのように、奥歯を噛み合わせ、手の中にあった水晶の数珠を握り締めた。


 夜空に眠たげな月が昇り、真夜中というにはまだ早い刻限。
「今宵もよろしくお願いします……巳汐様」
 昨夜と同じように、だが今日は一人で巳汐の待機していた部屋を訪れ、畳の上に深々と平伏した白い半妖の子を見て、巳汐は内心、おやと思った。
 まだ幼くまっさらだったところに、あれだけの目に突然遭わされると、その衝撃で「花」になることを断念してしまう者もいる。勿論、そういう者は廓に上がったところで長続きしないので、あれには最初から向き不向きをふるいにかける意味もある。
 今夜もまた巳汐の前に正座した夜光の顔つきは硬く、細く薄い身体もやや竦んでいるようではあったが、紫の瞳は心を思いさだめたように正面から巳汐に向けられていた。目の色が違う、というのだろうか。
 夜光がこの最玉楼の楼主、すなわち「長」と呼ばれている人物の養子であることは、当然広く知られている。長は気さくでおおらかで心優しく、この最玉楼に勤める者達は、その全員が長の人柄を慕っていた。
 そんな長に可愛がられて育った夜光など、さぞかし甘やかされていたことだろうし、なんの気まぐれで「花」になりたいと思ったか知らないが、どうせすぐに逃げ出すだろう……と巳汐は思っていた、のだが。
「身体に何かおかしなところや、大事はありませんか」
 巳汐が問いかけると、はい、と夜光は小さく頷いた。膝の上に揃えて置かれたその白い手は、よく見ると僅かに震えていた。
 巳汐は手にしていた瑠璃色の煙管を口元に運び、あらためて夜光の白い姿を眺めた。
「……おまえは、なぜ花になろうと思ったのですか?」
 巳汐が相変わらず淡々とした声音で問いかけると、個人的なことで話しかけられたことがよほど意外であったように、夜光が俯きがちにしていた目を上げた。
「え?」
「話したくなければ別に構いません。ただ私が興味を覚えただけですから」
 終の涯の遊郭は苦界ではないし、最玉楼も広義の意味で多くの遊興を嗜むことができる、そこで働く者達にとっても、楽しみと働き甲斐のある場所だ。それでも花として働くのは、様々な意味で特につらいことも多い。ここで働きたいのであれば、芸子や裏方勤めでもいいし、別に花としてでなくても良い。
 それだけに、本心では望まないのに「お職」に就く、というのは、誰にとっても歓迎されない。終の涯は豊かな場所であり、何も望まぬ職に就かずとも、いくらでも生きてゆく術はある。まして夜光は長の養子なのだから。
 夜光は視線を俯け、しばらく黙っていた。話すべきか迷っているのは明かだった。巳汐は煙管をくゆらせながら、何も言わずに深い蒼の瞳でそれを眺めていた。
「……百呪の願のため、です」
 やがて俯いたまま、ぽつり、と夜光が言った。
「ほう……?」
 それは意外な一言であり、巳汐は珍しく、僅かながら切れ長の目を瞠った。もっともそれは本当にごく僅かであり、一見ほとんど表情を変えたようには見えなかったが。
 百呪の願。それは「異なる種のものに変わることができる稀代の術」として、まことしやかに妖達の間で名を囁かれる秘術だった。その術を施せるのがたったの一人の仙女だけであり、その仙女は何処ぞに隠棲してしまって姿を滅多に現さないことから、幻の術とも、ただの出鱈目とも言われている。
 だが、その仙女とこの最玉楼の長は昔から懇意にしており、名湯でもある最玉楼に、ふらりと件の仙女が湯治に訪れることがある。よって巳汐は、その仙女と術が確かに存在することは知っていた。
「それとは、要はおまえは、人か妖かになりたいということですか?」
 夜光はもともとは蓬莱――人間界にいたのだが、半妖であったことから人間達に疎まれ、怖れられ、ひどく虐待されて死にかけていたという。それをあやういところで救ったのが、長だという。
 小耳に挟んだことはあるそれらを思い出しながら、巳汐は瞳を眇めていた。
「百呪の願」と呼ばれる術は、その成就に生半可ではない代価を要求する。それは「百の心と契りと命」。なりたい、と思う種の者の心を奪い、奪った上で契ることで呪が発動して、贄とする。それを百度繰り返す。つまり人になりたくば百の人間を惚れ込ませ、妖になりたくば百の妖を惚れ込ませ、その命を喰う。
 他の妖や人間を糧とする妖も珍しくはない。それ自体はただの自然のならいであり、巳汐は別にどうとも思わない。しかし、術式の贄に、となると、いささか話は別だった。
「私は……人になりたいと思っております」
 なので、夜光がそう呟いたときは、いささかほっとした。
 まあ、よくよく考えれば、妖になることを望んでいる、すなわち狩る対象が妖であるのだとしたら、巳汐に聞かれたところで夜光も馬鹿正直に答えなかっただろう。この半妖の子に心底惚れる、という大前提が必要である以上は闇雲なものではないが、下手をしたら喰われると事前に分かっていたら、当たり前だが接する妖達は誰でも警戒する。それでは、落とせるものも落とせなくなろう。
「私は、この通り力の弱い半妖で、界渡りすることもできません」
 巳汐がそう考えている傍ら、夜光は呟くように言葉を続けた。
「ですから、蓬莱にまぎれて贄を捜すこともままなりません。この終の涯に流れてくるマレビトの中から喰う他にない。そのためにはどうするのが良いのかと考えて、花になることが最も手堅いと考えました」
 マレビト、とは、すなわち蓬莱から迷い込んでくる「人間」のことだ。マレビトが終の涯を訪れることは、波があるがそこまで稀なことでもない。蓬莱に還る術もない彼らは、皆ここに居つくことになる。遊郭を訪れるマレビトも多く、確かにそこに「半分は人」であることを売りにした花がいれば、同族に対する懐かしさと郷愁から、ふらふらと吸い寄せられてくる者も多かろう。
 だがそれにしても、随分と気の長い話だ。確かに界渡りもできない夜光にとっては、最も効率は良いかもしれないが、ただ単に百人と契ればいいわけではない。他人事ながら、巳汐はその気の遠くなる話に、煙を吐くのにまぎれさせて軽く溜め息をついた。
「成程ね……」
 だが、これで納得はできた。この半妖の子は、それこそ生半可な覚悟でここに臨んでいるのではない。
 かつて人間に虐げられていながら、なぜ人間になりたいと思ったのか、そこまでは巳汐も分からないし、踏み込むつもりはなかった。
 ただ、音もなく降り積もる雪のように物静かに見えて、夜光の紫色の瞳の根底には、深く強く揺らめく、悲愴なまでに思い詰めた光がある。それに偽りがないのなら、先達者として、それに誠意をもって応えてやるのも悪くなかろうと思った。
「百呪の願ですか……本当にそれを為そうとする者を目の前に見るのは、私も初めてです」
 巳汐は最後にもう一度煙管を吸い、紫煙を吐いて、煙草盆に灰を落とした。煙管を置き、じっと目の前に正座している白い姿を、あらためて深い蒼の瞳にとらえた。
「それでは、そろそろ始めましょうか。こちらに来なさい、夜光」


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