cats and dogs

‐original BL novels‐



花霞に潤む月 (二)

   § : 『INDEX/小説紹介』
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 秋の深まりつつあるさなかに物の怪が村を襲った出来事から、既にひと月近くが過ぎていた。
 昼の日向であればまだ暖かさも残っているが、朝晩の空気は吐く息が白むほど、もうめっきり冷え込んでいる。
 あれから夜光と葵は、村を含める領地一帯を治める守護代の手回しにより、村外れの森の近くにある小さな庵で、ひっそりと暮らすようになっていた。庵はささやかではあったが、造り自体は守護代の別邸にあった離れ並みに手が込んでしっかりしたものだった。
 今ではほとんどの村人達が夜光に対する疑いを解いており、村からさほどの距離はないここで暮らし始めても、二人に害を為そうとする者は現れなかった。
 しかし中には、未だに先の出来事を夜光の仕業だと思い込んでいる者もいる。疑いを解いてはいても、「人外のもの」を受け入れることには抵抗を抱いている者もおり、そんな中を守護代の屋敷に戻ることは躊躇われた。
 そういったこだわりを持たない村人達は、負傷した夜光のことを案じ、食糧や家財道具を分けにきてくれたり、冬支度を手伝ってくれたりした。
「ま、この冬を越えて春になればさ。風も野山もぬくぬくしてきて、気持ちがとんがってた連中も、きっとだんだんやわらいでくるよ。こういうことはね、放っておくのが案外いちばんいいんじゃないかと思うよ」
 ある日庵を訪れた女性は、笑いながらそう言うと、それじゃあね、と籠いっぱいの美味しそうな栗を置いていってくれた。

 それらの村人達の心尽くしに、夜光も葵も心から感謝した。
 それでも、どうしても、夜光は人間の間に立ち混じって暮らすことが怖ろしく、この先も村に戻ろうとは思えなかった。
「俺もそれでいいと思う。毎日気を張り詰めて暮らすのでは、おまえの身がもたないだろう」
 葵はあっさりと、そう言ってくれた。
 たとえ大半の村人に悪意がなくとも、ほんの一部でもそうではない者がいる。夜光も「もう一度人間を信じてみよう」と思いはしたものの、それと加えられるかもしれない危害に対し無防備になるのとは、また別の話だった。
「すみません、葵……」
 どうしても村に戻る勇気を持てない自分の弱さを、夜光は詫びた。暖と灯かりを取ることを兼ねた囲炉裏の火に照らされた夜光の頬は、硬質な陶器の人形のようだった。
 夜光の質素な小袖の肩は、寒いだろうからと屋敷の家宰が置いていってくれた、古着を解いた肩掛けにくるまれていた。寒さのせいばかりではなく、小刻みに震えている夜光の肩を、葵は片腕で抱き寄せて軽く叩いた。
「何を詫びることがある。おまえの良いようにすればいい」
「……はい」
 敵意を持たずにいてくれる村人達の一人一人は、夜光にも怖ろしくはない。けれど「人間達」という集まりになると、やはりどうしても、本能から拒絶感が生じる。
 夜光は葵の胸元に頭を預けた。もう思い出したくない、という感情を裏切ってどうしても甦るのは、幼い日に人間達から虐げられた記憶。それと共に重なってよぎるのは、あの日村に戻ったときに村人達から投げつけられた、怒りや憎しみを帯びた言葉と眼差しだった。
「……忘れられたらいいのに……」
 ぽつりと呟いた夜光の髪を、葵はしばらく黙って撫でた末に、そうだな、と言葉少なに答えた。
 夜光の中から、もはや深く刻まれすぎた記憶が消え去ることはない。それから逃れたい、と誰より強く思っているのが夜光自身であることも、葵は分かってくれている。
 忘れろとも言わず、それでもいいと、どうにもならない痛みごと夜光を受け入れてくれている葵に、夜光は胸にひたひたと広がるような静かな安堵を覚えた。
 この痛みを胸奥に抱いたまま生きるのは、まるで染み付いた呪いのように辛く苦しいけれど、葵が共に居てくれるのなら耐えられる。
 囲炉裏の暖かな明かりと火のはぜる音が優しく、葵に凭れたまま、夜光は新雪の色をした睫毛を頬に下ろした。


 いつの間にか村では「あの牛鬼を撃退したのは夜光と葵」だということになっており、どちらも恩人扱いされていた。元々が人望のある守護代の縁者であり、葵の場合は先の騒ぎにおいても率先して働いていたせいもあるのだろう。
「子供達が、先生はあんたがいいと言って聞かないんですよ。よければまた、稽古をつけに通ってきてくれませんか?」
 そう屋敷の道場の者達に持ちかけられ、特に断る理由もないかと、葵もそれを引き受けた。
 もともと身一つを持つのみの自分が蓬莱でやってゆくには、多少なりともある学か武芸で身を立てる他ないだろうと思っていた。たとえ村の道場というささやかな場であれ、望まれているのなら渡りに船でもあった。
 夜光のことがあるから、葵に対してもまた、胡散臭いものを見る目を向けてくる者はいた。そういった者達に対し、葵は恩義ある守護代の為に、何より夜光の為に、決して表立って事を荒立てることはしなかった。
 常に笑顔で穏やかに構えている葵に絡んでゆく者もいたが、葵が真正面から静かに見据えてやると、たいていぶつぶつ言いながら立ち去っていった。


 冬至を目前にした山野はすっかり紅葉し、道端の雑草も枯れて、寒々しく土が剥き出しになっているところが増えた。
 寒さも深まっているが、子供達は元気なもので、稽古と称して毎日賑やかにとんだり跳ねたりとはしゃいでいる。
 午(ひる)までのそんな時間をいつものように屋敷の道場で過ごし、その日の予定はそれでしまいだったので、葵は村から庵にのんびりと歩いて帰ってきた。庵を覗き込むと、夜光の姿はなく、しんと静まり返っていた。
 一人であまり外に出たがらない夜光ではあったが、傷も癒えた近頃は、少しずつ外を歩くことを増やしているようだ。夜光はそういうときは、袂に赤と青の守宮(やもり)――に変化(へんげ)した火月と水月という双子鬼――を潜ませている。それに夜光がその気になれば、夜叉の角の隠れていない、すなわち生来の妖力を自由に発揮できる今なら、望まぬ相手を寄せ付けないことくらい容易いようでもあった。
 それでもやはり心配ではあり、じっとしているのもなんとなく落ち着かず、葵はそう広くもない庵の掃除を始めた。しかしこれも、何しろ夜光が日々完璧なまでに片付けてしまっていて、今さら葵が何をする必要もなかった。
 庵には三和土があり、そこと障子を隔てた居室は一間だったが、小さな縁側がついており、水屋や狭いながら風呂場もあった。囲炉裏のある居室は板張りだが、少し奥まったところにだけは畳が敷かれており、そこを臥所に使っている。
 あれこれと差し入れてくれる村人達のおかげもあり、夜光と二人で過ごすには備えは充分すぎる上に、夜光の育ての親である終の涯の長(おさ)からも、生活の助けになる様々なものが届けられていた。
「長殿も、夜光に不自由な思いなどはさせたくないのだろうな……」
 それらの至れり尽くせりな品々を眺めながら、長に感謝しつつも、葵はいささか複雑な気分で思う。
 終の涯で暮らしていた頃も、夜光は優雅に何もせず暮らしていたわけではなかった。だがそれでも、桃源郷さながらであった終の涯での生活に比べると、蓬莱にいる今は不自由なことがはるかに多いはずだ。
 それでなくとも、結果的に夜光を終の涯から引き離してしまった罪悪感が、少なからず葵の中にはある。だからこそ尚更に、夜光に後悔させたくない、させるようなことになってはならない、と強く思う。
 元々働き者であった夜光は、蓬莱に来てからも立ち働くことを厭わなかった。この庵に移り、傷が癒えてからは、昼間は村に出かけていることが多い葵のために、炊事に洗濯に様々な雑事にと細やかに尽くしてくれている。
 半妖である夜光の身体は人間に比べて丈夫であるせいなのか、そうした生活でもその玉のような肌の美しさが損なわれることはなく、それにはひそかに葵は安堵していた。手足があかぎれて痛む、というような思いなど、させずにすむならそれに越したことはなかった。
 そんなことをとりとめもなく考えていたとき。
「あのう……すみません」
 控えめに戸口を叩く音と、呼びかけてくる女性の細い声がした。この庵を訪ねてくる者など村の者以外いなかろうと、葵はさして何も考えずに三和土に降りて戸口を開けた。
「おや?」
 そこで、ぽかんとした。
「これは……どちら様でしょうか」
 そこに立っていた女性としばし向き合い、やがて葵はやっと気を取り直して訊ねた。
「突然に、あい済みませぬ」
 そう言って伏目がちに頭を下げたのは、壺装束の一人の歳若い女性だった。小袖の上に裾をからげた鮮やかな紅梅模様の袿を纏い、いかにも仕立ての良い衣の下に垣間見える肌は透けるように白い。藺笠から垂れた薄布をその細い指が僅かに持ち上げると、その下から思わず目を瞠るほどに美しい白い貌が垣間見えた。
「わけあってこの先まで旅をしているのですが、足を痛めてしまって……申し訳ありませんが、少しこちらで休ませていただくことは出来ませんでしょうか」
 女性は紅を引いたように艶やかに紅い唇から、細く落ち着きのある声でそう言った。睫毛の長い黒い瞳が薄布の下で瞬き、天上の儚い星明かりを浮かべたようなその煌めきに、葵は思わず呼吸を止めた。
 絶世の美女。傾城の美女。と呼ぶにまさに相応しいような、その女性だった。葵はぼんやりと見とれかけたものの、はっと慌てて我に返った。
「それは災難でしたね。何のおもてなしもできませんが、それでもよければどうぞ足を休めていってください」
「とんでもございません。ありがとうございます。助かりますわ」
 女性はたおやかに腰を折り、藺笠から垂れた薄布を夢のように揺らして、戸口から中に入ってきた。
 すれ違った一瞬にふわりと香った、爽やかでありながら甘い香りに、葵はふと酔わされそうになった。

 寒い中を歩いて身がさぞかし冷えているだろうと、葵は囲炉裏に火を入れ、ついでに湯を沸かす。
 その炉辺に置いた茵(しとね)に、その女性は笠を脱いで品良く腰を下ろした。腰まで流れ落ちる黒絹のような髪が見事にうねり、さして大きくも立派でもない部屋の中にあって、彼女の気品ある姿は場違いなほど煌びやかだった。
「常葉(ときわ)と申します」
 女性はおっとりと名乗った。その小さく細い顎を傾げる仕種や、袖から覗いた指先で袿の裾を整える様までもが雅やかで、何のやましい気持ちがあるわけでもないが、葵はどうかするとつい目を奪われてしまった。
「俺は葵と申します。ところで、お伴の方は?」
 葵も名乗り、ふと気になって訊ねた。まさかこのようないかにも深層の令嬢然とした姫君が、一人旅をしているわけもあるまい。そういえば先程彼女を迎えに出たときには他に誰の姿もなかったなと思っていると、常葉は「ああ」と気が付いたように答えた。
「薬草を摘めぬかと、別の道に」
「そうでしたか……何か使えるものが生えていれば良いのですが」
 もうほとんどの野草が枯れているから、探したとてなかなか見つからないのではないだろうか。できる手当があればここでと思ったものの、葵はためらった。擦り傷の類いなのか挫いたのかは分からぬが、妙齢の女性の素足を医者でもない葵が見たりふれたりするのは、いささか都合が悪い気がする。まして常葉は、明らかに身分ある姫君のようだ。
 葵が迷っているのを察したように、常葉は細い首を傾げるように微笑んだ。
「軽くひねっただけですから、おかまいなく。少し休ませていただければ大丈夫ですわ」
 気にはなったものの、相手にそう言われれば、葵も強引に看るまでのことは出来なかった。
「あなたのような姫君がこんな季節に旅とは、また随分と難儀ですね」
 湯が沸く間に茶葉の用意をしながら、葵が手持ち無沙汰に言うと、常葉は曖昧に顎を引いた。
「そうですわね……ですが大事な用向きですので。仕方がありません」
 どこの姫君なのかは分からないが、おそらくこの先の村、つまり守護代の別邸を訪ねる途中なのだろうと葵は思った。それ以外に、こんな何もない農村にまで、わざわざいかにも身分のありそうな女性が足を運ぶ理由が思いつかなかった。
 葵が湯気を立ち昇らせる湯飲みを出すと、常葉が黒々とした美しい瞳を持ち上げた。
「ありがとうございます。いただきますね」
 常葉は磨かれた爪の先まで整った指で、静かに湯飲みを取り上げた。その様子は、やはり殿上人のように美しく洗練されていた。
 彼女の姿勢の良さに、葵はふと違和感を覚えた。足を痛めた、というわりに、足を崩している様子もないし、庇っている様子もない。
 そういえば旅をしてきたというわりに、常葉の足袋は真っ白で土埃ひとつついていなかった。ここまで馬を使ってきたのかもしれないし、お伴の者が常葉をここに下ろして馬に乗っていったのかもしれない。だがそれにしては、馬の蹄の音も聞こえず、路に蹄の跡も残っていなかった。第一それならば、常葉がいきなり訪ねてくることなどせず、お伴の者がまず葵に取り次いでいたのではないだろうか。
「あの……失礼ですが、常葉殿はどちらからおいでになったのですか?」
 葵が湯飲みを口に運びながら訊ねると、常葉は透き通る黒い瞳を、ゆるりとめぐらせた。弓なりの長い睫毛が瞬き、ふ、と淡く微笑んだ。
「何故そのようなことをお訊ねになるのです?」
 妖しいまでに理性に揺さぶりをかけるような婀娜めいた微笑みに、葵はいささかぎょっとした。
「このあたりでは、お見かけしたことがありませんから。女性の身で遠方からいらっしゃったということであれば、さぞかし大変な旅だったでしょう」
「気にかけてくださいますの?」
 鮮やかな色合いの袖で口元を隠し、常葉はくすくすと笑う。その笑い声はひそやかでありながら、やけに身の内をくすぐるように艶っぽかった。
「お優しい方。見ず知らずの私にこんなに親切にして下さって。常葉は嬉しゅうございますわ」
「は……?」
 するりと常葉が葵に身を摺り寄せた。もともとさして広い部屋でもなく、囲炉裏の角を挟んでいただけの距離を、常葉は半ば身を崩してしなだれかかるように簡単に詰めた。
「あの。常葉殿?」
「私がどこの誰なのか。そのようなこと、お気になさらずともよろしいではありませんか」
 常葉は言いながら、ますます葵に身を寄せる。何事だこれはと葵が思わず身を引くと、引いた分だけ常葉はまたあっさりと距離を詰めてきた。
「あの、常葉殿。どうなさいました。足のお怪我は大丈夫なのですか?」
「そのような無粋なことは仰って下さいますな。お可愛らしい方」
 常葉の白く華奢な手が、葵の袖をきゅっと掴んだ。気が付けば葵は完全に後ろに退いており、常葉はそれを逃すまいとするように、ためらいもなく葵の上に袿に包まれた豪奢な身体を乗せてきた。
 常葉の吸い込まれそうに美しい黒い瞳に見据えられた途端、葵は金縛りに遭ったように手脚が重くなった。完全に自由がきかないというほどではないが、目に見えぬその圧力は明らかに異常だった。
 常葉の手がしっとりと葵の頬をなぞり、白い美貌が魔性じみた妖艶な笑みを浮かべた。尋常ならざる雰囲気に、悪寒ではないものの、葵の背筋にぞくりと粟肌が立った。
「あなたさまのような、素直で優しい御方であれば。常葉を邪険になど、きっとなさいませんよねぇ……」
 見るも妖しく、常葉の唇が囁いた。
 ――もしやこれは、人外のものか。
 葵は既にすっかり常葉にのしかかられ、手脚の重さに思うように身動きもできなくなっていた。様々な違和感や急に動かせなくなった手脚や尋常ならざる常葉の様子が、これはどうやら人間ではないと葵の本能に訴えかけていた。
「いや、あの。お待ち下さい常葉殿。これは何事ですか」
 それにしても、邪悪な様子ではないこと、いたいけな妙齢の女性の姿であることが、葵に強く突っぱねることを躊躇させた。これは妖の類いではないかと考えてはいるものの、万が一にでも人間の女性であったらと思うと、あまり乱暴な扱いもできなかった。
 困惑している葵の上に、常葉が鈴を振るような笑い声を零しながら、ますます身を乗り上げた。
「私、退屈しておりますの。ねぇ、可愛らしい御方。私と共に、しばし戯れて下さいませんこと?」
 その恐ろしいほどの美貌が眼前に迫り、葵はようやく身の危険を覚えて顔色を変えた。
「い……いや。待って下さい、と言っているでしょう」 
 何故こんなものが突然現れたのかは、さっぱり分からない。だがこれは間違いなく妖だ、と葵が確信し、思い手脚をなんとか動かして常葉を押しのけようとしたところに、静かな足音が庵に近付いてきた。よく聞き覚えたそれが庵の前まで来ると、入り口の引き戸が開かれる音がした。
「只今戻りました、葵……」
 三和土から囲炉裏のある部屋までは、ほんの数歩の距離もない。少しでも寒さを遮るために閉めておいた障子が開かれ、夜光が白い姿をのぞかせた。
「夜光」
 今やすっかり常葉にのしかかられ、板の間の上に押し倒されていた葵が、ほっとして夜光を見、直後にぎくりと強張った。
「いや、夜光、待て。これは違うんだ。おかしな誤解をするな」
 凍てついた表情のまま立ち尽くしている夜光が、今のこの状況を見て何を考えているのか。そんなものは問いただすまでもなかった。葵の顔から血の気がひき、常葉を押し退けるように跳ね起きる。手脚にあった妙な圧迫感が一瞬にして消えていたことにも、動揺した葵は気付かなかった。
 常葉は葵と夜光の二人をかわるがわるに見回しながら、とくに抗うこともなく、するりと身をひくように起き上がった。
「おまえさま……」
 黙って立ち尽くしていた夜光が、やっと口を開いた。しばし無言で俯いていたその顔が持ち上がり、ぞろりと葵に視線を当てる。その不穏極まる凍てついた双眸に見据えられ、葵の全身に氷水を浴びせられたような悪寒が走った。
 それを見据えた夜光が、低い低い冷え切った声で言った。
「私という者がありながら……よくもそのようなことをなさっておいでですね」
「いや、違う! だから誤解だ!」
 ここは全力で否定して納得させなければ、命に関わる。本気で蒼白になった葵は、ほとんど悲鳴と大差ない声で叫んだ。
 その耳に、明らかにぷっと吹き出す声が、背後から聞こえてきた。それに次いで、まったくもって場違い甚だしい、おかしくてたまらないといったような軽やかな笑い声が響く。
「……は?」
 葵が振り返ると、そこでは常葉が腹を抱えるようにしてうずくまっていた。背を向けて完全に顔を伏せているが、紅梅模様のゆったりとした袿が全体に小刻みに震えている。どう見ても、そのやたらと楽しげな笑い声を発しているのが常葉であることは、間違いがない。
「……ああ、まったく」
 やがて、艶やかな長い黒髪と袿しか見えていなかった常葉から、そんな言葉が洩れた。その声音を聞いて、何がなんだか分からずにいた葵は目を剥いた。
「素直すぎてどちらも可愛いこと。ですが葵殿、あなたは優しいといえばそうかもしれませんが、少し隙がありすぎやしませんかねぇ?」
 常葉が発したその声音は、先程までの「常葉」という女性の声音ではなかった。それどころか、はっきりと耳に覚えのある男性の声音。男性にしては少し高めの、けれどしっとりと耳朶に馴染む落ち着きのある、物柔らかで悠然とした声音。
「長……様?」
 夜光もぽかんとして、長い黒髪の後ろ姿に呼びかけた。
 その黒髪の後ろ姿が、こらえきれないように笑いながら身を起こして振り返る。いったいいつ変化したものやら。いや、もともと上背の高さを除けば、女性と大差ないのではというほどなよやかな容姿の人物ではあったが。
「私ですよ。しばらくですね、二人とも」
 振り返った長は、目許に一筋の朱い刺青をさした印象的な金色の瞳で、何事もなかったかのように、にこりと葵と夜光に笑いかけた。


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