cats and dogs

‐original BL novels‐



月の鏡に落ちる雪 (八)

   § : 『INDEX/小説紹介』
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 夜光は牛鬼からつかず離れずの距離を保ちながら、生い茂る樹木の上をかすめる程度の高さで、ひたすら宙を翔けていた。
 牛鬼の脚は速く、少し油断するとすぐ足下を振りかざされた鉤爪が薙いだ。それだけでも恐ろしい緊張感だったが、このように意図的に長い間妖力を発現させ続けたことなどなかった夜光は、じきに息を切らし始めた。
 少しでも消耗を抑えようと、完全に宙を舞うわけではなく、高い枝から枝に跳ぶようにしながら移動してみることにした。それで少しはましにはなったが、呼吸が弾んで息苦しく、自分の身体なのに手脚がやたらと重い。枝から枝に渡るたびに、次に踏み出すことが困難になってきた。
 ここは今どのあたりだろうか。めくらめっぽう、とにかく村から離れることだけを考えて進んできてしまった。
 できればあの牛鬼を谷底に落とすなり、大きな岩で押し潰すなり、何かしらすぐには動けなくできたら良いのだが。そこまでの余裕があるだろうかと考え、途方に暮れた。
 そもそも夜光に、そこまで出来るほどの妖力などない。今もこうして、せいぜい我が身を囮に牛鬼を引き回すだけで精一杯だ。
 高い枝の上に立って少しでも呼吸を整えているところに、鬱蒼とした樹木の合い間から、ばきばきとあたりの生木を押しのけながら真っ黒い大きな姿が現れるのが見えた。夜光が疲弊していることを読み取っているのだろう、牛鬼の動きは最初のような躍起になったものではなく、明らかにじわじわと獲物を追い詰める動きに変わっていた。
 動かなければ。
 そう思いながらも、翔ぶために踏み出す足が鈍った。自分の息遣いの音が自分でもうるさいほどで、どれほど呼吸を繰り返してみても楽にならなかった。
 その一瞬の隙を衝かれた。蜘蛛のように折り曲げられた牛鬼の脚は伸ばすと驚くほど長く、その一本が目にもとまらぬほどの速さで、夜光のいる樹に向かって繰り出された。ぎりぎりで夜光の身には届かなかったが、巨大な鉤爪はそのすぐ足下を薙ぎ、かなりの太さのあった幹を難なく破砕した。
 翔ぼうとしたが、折れ曲がった枝の一本が袂に掛かった。そのまま樹は鉤爪で引き倒され、その凶暴な力に巻き込まれた夜光は、折れ砕けた枝々と一緒に地面の上に落ちて叩きつけられた。
 途中で木の枝に引っかかりながら、まだしも柔らかな地面の上に落ちたとはいえ、身体中をひどく打った衝撃と痛みのあまり息が詰まった。
 頭の芯がくらくらして、なんとか瞼を持ち上げてみたものの、視界が何重にも重なり揺れて見えた。その中を、もはや夜光に逃げる力はないと判断したのだろう、のそりのそりと黒い巨躯が近付いてくる。
 ああ、死ぬのか。
 身体が痛むのと胸が苦しいのとで、夜光はもう動くことができなかった。我ながらあっさりとそんなことを心の中で呟いた途端、首を起こせないまま、視界がこみ上げてきた涙にぼやけた。
 こんなあっさり終わるなら、葵と最後に喧嘩などするのではなかった。共にたくさん笑おう、と思っていたはずだったのに。
 この牛鬼は、村に戻ってしまうだろうか。せめて一人でも逃げ延びてほしい。葵もどうか逃げて。この牛鬼にも、この牛鬼の理がある。これは誰のせいでもないこと。
 零れる涙と共に、想いがあふれた。
 ――葵。一目、姿を見たい。
 しかしそれは、叶わぬことだった。他ならぬ葵からこの恐ろしい災禍を引き離すために、ここまで逃げて来たのだから。
 葵も長様も、ごめんなさい。でも、葵が死ぬよりは良い。葵が死ぬくらいなら、この身が引き裂かれる方が良い。
 いよいよ目の前まで迫った黒々とした巨躯が、これまでも無数の生身を貫いてきたのだろう恐ろしい鉤爪を持ち上げるのが見えた。
 それをぼんやりとかすんだ紫の瞳に映した後、夜光は涙の零れる瞼を閉じた。


 先々で薙ぎ倒され、行く手を阻む厄介な樹木を、槐が鎌鼬のような風で吹き飛ばしてくれた。そのおかげで、そこからは先は進む速度が大きく上がった。
 美しい黒鹿毛の若駒もこの悪路にすっかり慣れたのか、足場のまだしもましなところを選んで身軽に進んでゆく。
 やがて行く手から、ばきばきと生木を割り裂き、枝葉をざわめかせる物音が聞こえてきた。それを耳にした瞬間、葵は黒鹿毛の腹を蹴っていた。
 とうに山の生き物達も冬支度を始めていただろうに、今夜ばかりはそれどころではないのか騒々しい。先に進むほどにその騒々しさは大きくなり、慌てたように逃げ散ってゆく大小の動物達が、無数に馬の前や横を通り過ぎた。
 葵の跨る若駒も、ただならぬ様相に怯えたように脚を止めた。葵は心を鬼にして、その腹をもう一度強く蹴った。
 もう少し頑張ってくれ。あの物の怪の目の前まで俺を連れて行ってくれたら、あとはもう逃げて構わぬ。
 その思い詰めた気迫が伝わったのか、若駒は止まりかけた脚を動かし、再び駆け始めた。
 頭上には、まだ充分に明るい皓月。その下に蠢く、民家ほども大きさのある黒い姿がやっと見えた。それは蜘蛛の脚のような鉤爪を大きく持ち上げ、今まさに狙い定めた一点に振り下ろそうとしていた。
「夜光ッ!!」
 若駒を御しながら大きく呼ばわったのは、黒い物の怪の気を引くためだった。
 出来る限り近くまで寄ったところで、葵は若駒の背から身を躍らせた。その勢いを借りて黒々とした巨躯に真っ直ぐ突っ込みながら、腰に佩いた太刀を鞘から払う。
 鋭く叩きつけられた声と裂帛の気合とに、牛鬼が振り向きざま、振り上げた鉤爪をぐるりと葵の方に巡らせた。
 空気を切り裂く音が耳鳴りと化すほどの速さで振られた鉤爪を、葵は身を沈めてぎりぎりで躱した。鉤爪にわずかにかすっただけの黒髪が、磨がれた刃物でもふれたように、ぱっと切り離されて散った。
 鉤爪をかいくぐり、牛鬼の懐に一気に飛び込む。すぐにそこに、別の脚が振り下ろされてきた。
 咄嗟に胴を斬り付けることは諦め、少しでも機動力を削ぐ判断に切り換えて、閃いた刃が三本の脚を同時に斬り飛ばす。疵口から粘ついた体液を撒き散らしながら、牛鬼が絶叫した。
 葵は脚を斬り払った勢いのまま駆け抜けて、牛鬼の懐から飛び出した。即座に受け身を取りながら地を転がり、勢いを殺しながら跳ね起きる。
 体勢を整えて太刀を正面に構えながら、夜光が視界の隅で力無くも動く姿を確認し、泣きたいほど安堵した。駆け寄って無事を確かめたかったが、しかし今は目の前で蠢いている禍々しい黒い巨躯に対して備えねばならなかった。
「う……」
 あらためてその姿を眼前にした葵は、ぞくりと全身を強烈な悪寒に貫かれた。なんとか構えた太刀の切っ先を保ちはしたが、悪寒と同時に脂汗が全身に浮いた。
 脚を斬り飛ばされた牛鬼は、傷付いていないひとつだけの赤い目をこの上なく純粋な憎悪と怒りとに燃え滾らせ、カチカチと牙を鳴らしながら、のそりと葵に向き直った。その黒い巨躯はあたりを圧し、月明かりの下で傲然と、禍々しく聳え立って見えた。
 妖気、というものを、葵は今ほど身に染みて感じたことはなかった。牛鬼は矮小な人間に向けて、おぞましいばかりの殺意と妖気を叩きつけてくる。葵はひくっと喉を引きつらせ、完全にそれに射竦められて手脚を凍りつかせた。
 こんなものに、人間がかなうわけがない。
 一瞬のうちに干上がった喉と、背筋の冷え切り方が、葵にそれを悟らせた。生き物としての土俵が違う。存在の土台が違う。あまりにも釣り合わぬ次元の存在に立ち向かうのは、もはや勇猛ではなくただの無謀であり、愚かで滑稽なだけだった。
 だが、退けぬ。
 がちがちと震えそうになる奥歯を、葵はぎりと噛み合わせた。震える腕に力をこめて柄を握り直し、牛鬼の巨躯を睨みつける。
 これに立ち向かった夜光が、恐ろしくなかったと思うのか。夜光がやりのけたことを、葵が恐ろしくて逃げ出すなど、あまりにも情けない話ではないか。
 それに、たとえ無謀であろうと、何としてもこの物の怪を退けねば、自分ばかりか夜光も助からない。夜光が葵を置いて逃げるとは思えず、それならば共に生き残るしか道はなかった。
 そこに、場の緊迫感などまるで無視した涼しい風情で、ふらりと黒い人影が割って入った。
「これはまた、大層立派な図体だな」
 墨染めの衣に長い黒髪をなびかせた槐が、散歩でもしているようにその場に踏み込んでくる。隙だらけにしか見えないその様子に、しかし牛鬼は、ぐるる、と喉の奥を唸らせて動きを止めた。鉤爪の脚が迷うように地を掻き、赤い目が葵から槐へと視点を移した。
 槐は葵の傍まで来ると、葵と夜光にしか扱えぬはずの金色の太刀を、無造作に取り上げた。
「空(そら)の宝刀か。また洒落たものを」
 金色の太刀の柄を、槐は何度か検分するように持ち直す。そして片腕で持ち上げ、すい、と真っ直ぐに切っ先を牛鬼に向けた。至極無造作でありながら、その動作は一本の揺るがぬ芯が通ったように美しかった。
「おまえ、俺とやりあってみるか? 衰えたとはいえ、貴様如きに後れを取る俺ではないぞ」
 悪戯っぽく笑み含んだまま、槐は牛鬼に語りかけた。葵は驚いて槐を見上げたが、その自信にあふれた姿には妙な迫力と説得力があり、手出しすることを躊躇った。
 牛鬼は少しの間喉を唸らせていたが、そのうち蜘蛛の脚をざわざわと蠢かせて後ずさり始めた。
 赤い光を宿す目を耀かせたまま、その黒い姿は鬱蒼とした樹木の向こうに沈んでゆく。やがて牛鬼の姿は闇にとけ、ばきばきと生木を押し退ける音も遠ざかっていった。
「……行った……」
 それを見届け、葵は全身で息を吐いた。腰が砕けかけていたが、よろけながら立ち上がり、倒れている夜光に駆け寄った。
 樹木の破片が散乱する中に倒れている夜光は、なんとか意識はあるようで、葵が走り寄ると弱々しく身じろぎした。だがすぐに呻き声が喉をつき、身じろいだその身体が強張った。
「夜光、しっかりしろ」
 身を捻るように倒れていた夜光を、葵はその肩の下に腕を入れて楽な姿勢に直してやった。夜光の肩にかかる程度の長さの乳白色の髪が、はらり、と空気を含んで揺れた。
 夜光はぐたりとして、白く薄い肌のあちらこちらに痛々しい生傷を負っていた。しかしひどく出血している様子はなく、手脚が折れている様子もない。呼吸も苦しげではあるが、少しずつ落ち着き始めていた。
 無事だ。怪我を負ってはいるが、生きている。
 そう思ったら、葵は夜光を両腕に抱き寄せていた。その傷ついた身体に出来る限り負担をかけぬよう、痛みを与えぬよう、細心の注意を払いながらも。
「……よかった……」
 唇から零れた声が、涙声になってしまっていた。涙を落とすことだけはなんとかこらえたものの、目頭の熱さを抑えることはできなかった。
 夜光が細い息を吐き出し、力無くゆっくりと白い瞼を瞬かせた。その腕がゆるゆると持ち上がり、葵の背にまわって、その着物を力の入らぬ指で握り締めた。
「あお、い……」
 細い喉が呼びかけた途端、その紫の瞳から涙が零れ落ちた。夜光は弱々しく、けれど懸命に葵に縋りつきながら、ただ何度もその名を呼んだ。
「あおい……葵……」
「うん。……夜光、すまなかった」
 葵はその薄い背を優しく抱き締めながら、ただ頷いた。
 言いたいことは幾らでもあるのに、言葉が出てこない。自分はこれほど口下手だったのかと驚くほど何も言えず、ただ何度も名を呼びかけてくる夜光に、葵はその度に頷いた。
 夜光の啜り泣く声を聞きながら、けれど確かにあたたかな体温の通うその身体を抱き締めながら、葵は安堵と後悔と愛しさの滲む息を、深く吐き出した。


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