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月の鏡に落ちる雪 (六)

   § : 『INDEX/小説紹介』
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 夜光は屋敷を出て、人目を避けるように歩くうち、村外れにある社に来ていた。
 小さな稲荷が祭られている境内は掃き清められ、社も手入れはされているが、相当に古びている。普段ならもっと誰かが参りに来るのかもしれないが、今日はそれどころではないのだろう。社の隅に夜光がじっと腰を下ろしていても、誰の姿も見かけなかった。
 葵が夜光を突き放すように、「おまえには人間など」と言ったときの声音と眼差し。それが、どうしても脳裏から離れなかった。
 それはかつて、おまえは化け物だったのか、と葵に詰め寄られた記憶を呼び覚ます。それはもうとうに過ぎ去った、そして二人の間で誤解もほどけて終わった話だった。
 けれど、こうしたときに不意に甦るあのときの光景と受けた衝撃は、鮮やかに夜光の心を痛打した。
 あれはもう終わったことだ。葵はあの後命を賭して夜光に詫び、夜光を想っているという真心を示してくれた。今の葵は、決してもうあのときのようなことは思ってない。葵はいつも優しく、滅多なことでは怒ったりもしない。
 それをあそこまで言わせてしまうほど、先に心無いことを言ったのは夜光だ。
 葵はここのところ、昼間は村人達と得体の知れない獣の手がかりがないかと検分や探索に出かけ、夜もしばしば見回りにかり出されていた。その上、無惨な屍や、それを見て嘆き悲しむ人々に間近に接していれば、身心共に疲れてしまわないわけがなかった。
 その末の力及ばずの人死にとなれば、葵の性分からして、それはこたえるものがあっただろう。そんなときに夜光にあんなことを言われれば、気持ちが荒んで昂ぶってしまったとしても、無理もない。
 そう分かっていながらも、夜光は先程の葵を思い返すたびに涙が滲みかけ、息も詰まりそうなほど胸が苦しくなった。
 葵が言った事はもっともだし、夜光だとて、皆によくしてもらって当然などと思いあがったことは考えていない。守護代はかつて長から受けた恩義を、長の縁者である夜光達に返してくれているだけで、自分達はそれに甘えている状態なのだから。
 今日も、早朝から出かけていった葵の様子を屋敷の者達が気遣って、夜光にも奉公を休むように取り計らってくれた。屋敷の者達は皆親切で、優しい。屋敷の顔見知りの誰かが殺されていたならば、夜光ももっと取り乱していたかもしれない。
 ――それでも。
「葵……」
 そんな得体の知れない恐ろしいものが徘徊しているのに、その只中に葵を送り出すことなど、どうしてできようか。
 葵はかつて、夜光の父親である夜叉の槐から、寿命を延ばす命の珠を分け与えられた。だがそれは、あくまでも寿命を延ばすだけのものであって、生身に妖並みの強靭さや妖力を得られる、というようなものではない。力の強い夜叉の命の珠であるから、少しは只人よりは強靭になっているかもしれないが、それでも普通に生身は疵付くし、致命傷を負えば命を落とす。
 葵の誠実で真っ直ぐな性根や、責任感の強さを好ましくは思うが、手に負えないと分かっているなら、今はどうか自分を大事にしてくれと言いたかった。
 葵を失うことなど、耐えられない。葵が村人達のために怪我をするくらいなら、周りが傷を負えば良い。
 世話になっておきながら、なんと恩知らずなことをと自分でも思う。こんなふうに葵のことしか考えられず、葵が無事であるなら他は構わないと思ってしまう夜光の心根は、とても身勝手で我が儘で醜い。
 そんな自分が厭で苦しくて、でも心のどこかで、葵の言った通り、「人間などどうでもいい」とさえ思ってしまっている自分がいることも事実だった。それがますます、夜光をいたたまれなく追い詰めた。
 じっと俯いて、握った白い手を膝に置いたまま動けないうちに、時間はゆるやかに流れていった。
 ここのところ、めっきり陽が暮れるのが早まっている。そうするうちに高い青空がうっすらと茜色を帯び始め、と思うとそれはたちまち赤紫を帯び、西の空が赤い色を深め始めた。
 陽が翳れば、風も急に冷たさを増してくる。それでも動こうとしない夜光に、それまで黙って心配そうに傍らに佇んでいた火月と水月が顔を見合わせた。
「ねぇ、夜光」
 やがて夜光の顔を下から覗き込むように、水月がひょいと腰を屈めた。
「もうさ、いいじゃん。終の涯に帰ろうよ」
「うん。その髪と瞳もさ。綺麗だし嫌いじゃないけど、僕らは前の、そのまんまの夜光の色の方がずっと好きだよ」
 火月も案じる色を赤く澄んだ瞳に浮かべ、夜光を見つめた。
「終の涯に……帰る……」
 二人の言葉に、夜光がのろのろと顔を上げた。
「そうそう。ぶっちゃけさ、長様なら問題のマレビト全員をなんとかするくらいチョロイと思うんだよね。ちょっとは手間だろうけど、一人一人の中から夜光の記憶だけ引っこ抜いちゃうとかさ。なんとでもやりようはあると思うんだ」
「僕らも、夜光がいなかったら寂しいし、つまんないよ。そりゃこっちに顔を見に来ることはできるけどさ。夜光にいちばん似合うのは、あの綺麗で穏やかな終の涯だよ」
 終の涯に帰る。
 その言葉に、夜光は切なく眉をひそめた。なんとかこらえていた涙が滲みかけ、それを振り払うように、夜光は白い瞼を下ろして首を振った。
「それはできない。おまえ達にも分かるだろう。これは私にとって、けじめのようなものなんだよ」
 長を除いては最も付き合いの古い、この双子鬼に対してだけは、夜光は言葉遣いがくだけたものになる。それは、夜光がそれだけ落ち着いて心を許しているということでもあった。ある意味で、あまりにも大事すぎて愛しすぎて、自分でも自分を御せなくなってしまうことのある、葵に対してよりも。
「そうは言ったってさぁ……」
 むー、と双子は不満そうに張りのある頬をふくらませた。
「帰っちゃえば、あのバカ葵にだって、夜光がどんだけしんどい思いしながらこっちに居たか分かるでしょ」
「夜光はあんまり顔とか言葉に出さないもんだからさ。そうでもしなきゃわかんないんだってば、ああいう単純バカには」
「そんなことはない、と思う」
 容赦のない二人の言い方に、思わず夜光は、小さくではあったが苦笑してしまった。
 葵は夜光のことをすべてではないにしても理解してくれているし、理解しようと努めてくれている。それは信じられる。
「葵は、私のことを何より大事に考えてくれているよ……ただ、すべてを分かってもらうのは無理だ。葵は私ではないのだから」
 それは寂しいとは思うが、夜光が幼い頃に人間達から受けた仕打ちはあまりに特殊で、そこで育まれてしまった怖れやあらゆる感情は、それこそまったく同じ境遇にあった者でなければ理解はできないだろう。
 むしろ葵には、こんなモノは分かってほしくない。葵はとても健やかで優しいから。こんな醜く苦しく、自分でもどうにもならない魂に根差した歪な感情は、葵が識るにはふさわしくない。
 それに、人間と半妖。蓬莱と終の涯。互いに属していた境遇があまりに異なりすぎて、どれほど語り合ったところで、そうそうすぐに分かり合えるものでもない。それはまだ時間の要ることだ、と分かっていた。
「もー……頑固なんだからなぁ」
 そう言いながらも、諦めたように双子が息をついた。そのときだった。
 夕暮れ刻の風に乗って、遠くから叫び声のようなものが聞こえた。かなり遠いものではあったが、人ならぬものである三人の聴覚は、並みの人間よりも鋭い。
 何人もの悲鳴と怒号の混ざったようなその不穏な響きに、三人は思わずそれの聞こえてきた方に視線を走らせた。
 とはいっても、そこには寂れた静かな境内があるばかり。
「……なんか声がしたね」
「うん」
 何も分からずとも、咄嗟に脳裏に閃いたのは、ここのところ村に続いていた怪異のことだった。
 今までは襲撃にも間があったから、まさか昨日の今日でとは思っていなかった。だがそもそも、そんな悠長な保証がどこにあるのか。むしろ人を喰ったことで、怪異をもたらしている得体の知れないモノが味を占めた、ということもあるのではないのか。
 夜光が立ち上がると、物言わず火月と水月がそれぞれ小さな守宮にしゅるりと変化(へんげ)した。夜光が駆け出しながら広げた左の袂に、赤と青の守宮は素早くもぐり込む。
 どうか、最悪の状況であってくれるな。
 そう思いつつも、急速に深まる夕闇の中を小走りに駆けてゆく耳に届くのは、いよいよ緊迫し混乱しきった悲鳴と叫び声ばかりだった。

 正確な場所も分からず、夜光はとりあえず声のする方へと足を急がせた。
 混乱した悲鳴が近付いてくるにつれ、行く手から足をもつれさせるように村人達が駆けてくる。そちらの方角が、よく見ると随分明るい。
 もう太陽は完全に沈み、西の空には夕紅の名残りが透けていた。頭上には暗い夜空が張り出しているから、向かう先にあるあの明るさは、大量に焚かれた松明か篝火だろうと思われた。
 まろぶように逃げてくる人々の顔は、いずれも顔色を失い引きつっていた。恐慌にかられて立ち上がれず、路を這うように逃れてゆく者もいる。大人から子供まで、男女も問わず、そのありさまはひどい混乱状態だった。
 飛び交う悲鳴と怒号が混ざり合う場所が近付くにつれ、夜光は眉をひそめた。
「……血の臭いが」
 そればかりではない。
「これは、野の獣じゃない……」
 目に見えぬものを透かし見るように、夜光は黒い瞳を「その方角」に凝らす。
 行く先から迸るのは、ひどく攻撃的で禍々しい妖異の気配。それは明らかに、「妖気」と夜光達が呼ぶもの。
 袂から小さな顔だけ覗かせた二匹の守宮が、怯えるようにきゅうと鳴いた。夜光もそれ以上進むのをためらったが、しかし立ち止まれなかった。
 いよいよその民家の角の向こうが、最も明るく血の臭いの濃い場所であるというところまで来た。曲がり角を越えたところで、夜光は立ち竦んでしまった。
 松明に囲まれた血の海の中に、巨大で奇妙なモノがいた。
 納屋ほどもあるのではないか、という大きさのそれは、形だけなら蜘蛛に似ている。だがその頭部は牛にも鬼にも似ており、大きく捻れた角が生えていた。
 闇の中で鬼火のように耀く双眸は、禍々しい真紅。何であるとも言い切れぬ恐ろしい異形の姿をしたそれは、巨大な牙をぬらぬらと覗かせている。その口のまわりや、鋼鉄のような真っ黒い毛で覆われた全身は、既に何人かを喰ったのか、流されたばかりの生き血にべたりと汚れていた。
 たった今噛み切ったばかりなのだろう、哀れな誰かの脚がその口からは飛び出ていた。見ているそばで、そのモノは大きな顎(あぎと)を動かし、それを難なく飲み込んでしまった。
「……牛鬼」
 夜光は思わず、青ざめて後ずさった。
 物の怪の中でも、特に凶暴だといわれる妖魔。百鬼夜行にまぎれ込んだ姿を幾度か目にしたことはあるが、これほど大きな図体のものなど見た覚えがない。
 この村を襲っていたのは、こんなものだったのか。こんなものに家畜や非力な人間が襲われたら、それはひとたまりもあるわけがない。下手な妖でさえ、荒ぶった牛鬼などに襲われたら助からないのだから。
 巨大な牙や強靭な顎があるばかりではなく、その蜘蛛の脚は恐ろしいほど敏捷に動き、かつすべてが凶悪な鉤爪になっている。夜光にしたところで、あんな脚に薙ぎ払われたら、一撃で致命傷を負うだろう。
 松明を手にした男衆が、果敢にも何人か、怒号し叫びながら真っ黒く巨大な牛鬼を遠巻きに囲んでいる。手製の粗末な槍の穂先に松明を括りつけ、そこにいるモノを威嚇しようとしているようだ。早く逃げろ、と周囲に叫ぶ声が聞こえていた。
 あんなものでは、ものの足しにもならない。夜光があまりに禍々しく恐ろしい光景に立ち竦んでいるうちに、牛鬼はのそりと動き、その重々しげな肥った胴体からは想像もつかないほど俊敏に鉤爪の脚を動かした。
 男衆の二人がまとめて、一瞬のうちに鉤爪に胴体を串刺しにされた。半ばちぎれかけた身体を引き寄せられ、生きたままがりごりと噛み砕かれる様に、周囲から悲鳴と怨嗟の声が上がった。
 曲がり角のところに佇んだまま、夜光は震えながら口元を押さえた。袂の中で、双子の守宮もかたかたと震えていた。
 ――なんとかあれを、一刻も早く村から遠ざけなければ。
 ざっと見たところ、付近に葵の姿はない。
 ここからは、村の奥まった場所にある守護代の屋敷までそれなりの距離がある。だが、知らせを受けた葵がここに来てしまうのは時間の問題だろう。そして来てしまえば、葵は先頭に立って村人達を守ろうとするはずだ。
 ふと。夜光はひらめくように、一つのことに思い当たった。
 葵があそこまで皆の助けになろうとするのは、もしかしたらかつて蓬莱で部下達を守ることが出来なかったことへの、罪滅ぼしの気持ちがあるのかもしれない。
 葵がそれを自覚しているのかは分からない。だが表には何も出さなくても、葵はずっと、不甲斐なく家臣達を死なせて自分一人だけ生き延びてしまったことを悔い、詫び続けている。
 それはこの先も葵を捉え続けるだろう、時間で癒えることのない、悲しい呪縛だった。かつて人間達に恐怖と憎悪を刷り込まれ、それを消せずに苦しみ続けている、夜光に課せられた呪縛と同じように。
「葵……」
 それがおまえさまなら、そこにあるのが弱さでも愚かさでも、私は受け入れよう。そして、私がおまえさまを守ろう。優しく真っ直ぐで、故に己を許すことのできない、そういうおまえさまだからこそ、私は愛しいのだから。
 夜光は震える足をこらえ、竦む身を抱き締めながら、あらためて目の前の地獄絵図のような光景を見やった。
 ――恐い。
 生きたまま人々が喰い殺される阿鼻叫喚に、夜光は完全に喉が干上がり、歯の根が合わなくなっていた。
 けれど恐ろしさと同じくらいに、胸の底からこみ上げてくる、何か別の感情があった。
 なすすべなく無惨に殺されてゆく人々の、悲痛な叫びが胸に痛い。怖れ慄きながらも、仲間の為に、家族の為に、大事な誰かの為に、必死で踏みとどまって恐ろしい物の怪を少しでも遠ざけようとしている人々の姿が、あまりに憐れで非力であるのに、どうしてか勇ましく尊い。
 ――そうだ。どうしても、人間なんて嫌いだ。
 夜光は合わぬ歯の根に口元を押さえたまま、こみ上げてきた涙に黒い瞳を強く瞑った。
 だけれど、夜光が虐げられていたときにも、確かに優しくしてくれた一握りの人間達がいた。
 憎しみや怒りや恨みに囚われるのではなく、そんな優しい存在になりたかった。呪わしく醜い妖としての己を棄てて、あのとき優しくしてくれた者達と同じ「人間」になりたいと思った。
 結局「百呪の願」は叶わなかったけれど、今なら漠然と思う。そうやって罪なきマレビトを百人喰い、「人間」になったところで、きっとその先には何もなかった。
 たとえ人になったところで、それで何もかもが浄い流されるはずもない。姿や身体ばかりがどう変わっても、夜光は夜光の心と記憶を持つ、己自身でしかないのだから。
 震える手で、かちかちとふれあって音を立てる奥歯を噛み締めながら、夜光は胸元から細い組紐を引き出した。
 組紐には、長から授けられた小さな美しい鏡が下がっている。それは夜光の妖としての姿を、本性を覆い隠すまじないを封じ込めた鏡だった。
 こうしている今このときにも、人間達が一人二人と殺されてゆく。人間なんて大嫌いだ。でもこの村の人々は、確かに夜光に優しくしてくれた。そして夜光が愛しく思う葵は、夜光が憧れそうなりたいと願った、儚くも優しい「人間」に他ならないのだ。
 ――なんとかしなければ、際限なく人が死ぬ。
 きうと、震える掌の中に小さな鏡を握り締めた。
 夜光、と驚いたような咎めるような双子の声が、頭の中に直接響き渡った。夜光はそれを無視して、首から組紐を外した。
 近くに落ちていた大き目の石に、小さな銀色の鏡を叩き付けた。ぱん、と、あっさり鏡は割れた。
 その音を聞いたと思ったときには、夜光は急に体温が高まり、身が綿のように軽くなった感覚にとらわれた。
 その熱さは、額に集中していた。強い眩暈がして、思わずきつく目を閉じる。だが不快感はなく、次に目を開いたときには、ほどけてゆくまじないを物語るように、自分の身体がふわりとした雪明りのような燐光に包まれているのが分かった。
 存在の芯から戒めを解かれ、長く閉ざされていた視野が開けたような解放感があった。目に映っているものは同じなのに、夜風の色すら分かるほど、何もかもが恐ろしく鮮明に見える。星月の持つ不可視の力が降りそそぐ音が聴こえ、大気に満ちる野山の精気が濃度を増して身を取り巻く。
 今まで自分の妖の根はこれほど閉ざされていたのかと、そのことに夜光は驚いていた。
 自分の姿を見下ろした視界の端に、白いものが揺れた。それは乳白色に輝く自分の髪だった。
 燐光に取り巻かれ、数瞬のうちに身の色を人ならぬものに変えた夜光の姿に、周囲からざわめき慄く声が上がった。
 人々がたちまち自分を遠巻きにするのを感じながら、夜光は深く澄んだ紫水晶のような瞳を瞬かせた。
 ――ああ。これできっともう、ここには居られなくなってしまったな。
 どこか他人事のように思いながら、夜光は白い手を持ち上げて額にふれた。
 柔らかな髪の間に、小さくふれる尖った硬い感触があった。それはもう百年近くも昔に自分の額から隠された、確かに夜叉の血を引くことを証し立てる、一対の白銀の角だった。


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