cats and dogs

‐original BL novels‐



夜明けまで (十三) -完結-

   § : 『INDEX/小説紹介』
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 迷いなく言い切った夜光に、しばらく長は何も言わなかった。目許に一筋さされた朱い刺青が映える切れ長の瞳は、哀しげなようでも、すべてを見通している深い理解を宿しているようでもあった。
「分かりました」
 やがて長が、頬をやわらげて微笑した。睫毛の長い美しい瞳が、正面に正座をしている夜光の姿を見つめた。
「おまえの良いようにしましょう。それで良いのですね」
「はい」
 小さく、だがはっきりと、夜光は長の瞳を見つめ返しながら頷いた。
 この終の涯で、長のこの眼差しに見守られ、深い愛情に包まれながら、百年近くもの時を生きてきた。その間に長からもらったものは測り知れなかった。
 夜光は間違いばかりをして、詮無き事ばかり嘆いて、世の多くのものを憎み、この身体と命を生み出した存在を恨んできた。今もまだ、それらを引きずっている。
 けれど叶うことなら少しでも、長のようになりたいと思った。長と遠く離れなければならないことも、身を切られるように寂しく哀しい。だからこそ尚更、その揺るぎなく優しく深い愛情に満ちた在り方に、せめて少しでも近付きたいと思った。
 長は脇息を傍に寄せ、仄かに苦笑しながら軽く肘を凭れさせた。その美しい唇から、溜め息がひとひら落ちた。
「おまえは本当に……もう少しくらい聞き分けのない、我侭な子でいても良いのですよ?」
「そんな。私はもう充分、我侭ばかりを言っています」
 本心からそうとしか思えなかったので、夜光は恥ずかしくなって首を振った。
 長はくすくすと軽やかな声で笑い、あらたまったように口を開いた。
「では、おまえが蓬莱に赴くときには私が界渡しをします。おまえにも準備があるでしょうし、暇を告げたい相手もいるでしょう。今すぐにとは言いませんから、支度が出来たら言いなさい」
「……はい」
「それから。おまえが我侭を言っていると思っているなら、私の我侭もひとつ、聞いてくれますか」
「長様の?」
 思いもよらぬ言葉に、夜光は問い返した。長の我侭など、その内容の想像もつかなかった。
 長は切れ長の瞳を微笑ませ、ゆっくりと言った。
「五十年か、百年か……この終の涯から、この度甦った者達が皆寿命で去った頃には、どうかまた此処に戻ってきて下さい」
 さらに思いもよらぬ言葉に、夜光は目を見開いた。
「え……」
「それまでの間、人を見て、人にふれ、人の間で精一杯に生きなさい。様々な人間がいるということ、人間にふれて人間というものを知ることが、おまえをその苦しみと哀しみに満ちた呪縛から解き放つでしょう」
「人の間で、人にふれて……」
 静かに長の続けた言葉を、夜光はひとつひとつ受け止め、繰り返した。無意識に掌が持ち上がって、己の胸にふれていた。そこには己の心の臓と、懐中に挿し込まれた葵の匕首があった。
「ええ。それで、もうここがおまえにとって危険な場所ではなくなったら。その暁には、この終の涯に……私の傍に戻ってきて下さい。おまえの外見は、そのまま変わることがない。万事に移り変わりの激しい人の世では、どうしても厄介事も多いでしょう」
「……はい」
 それは容易に想像できることではあったし、夜光のように妖力が強いわけでもない半端な半妖では、どうしても人界では生きづらいことは事実だった。否、人界ばかりではない。半妖であるがゆえに、純粋な妖の世界でも、生きるのは難しい。
 帰ってこいと言ってくれる長が、心からありがたく、嬉しくて、夜光は涙をこらえるのに苦心した。五十年か百年か。その歳月を今から思うのは気が遠くなるようだったが、いつかまたこの終の涯に帰って来られる、長とまたこうして身近に接することができるようになるのだということは、怯えて震え上がりそうになる心を強く励ましてくれた。
「ありがとうございます、長様」
 夜光は長に向かって、少し涙声になってしまいながら、深く深く頭を下げた。あふれそうな感謝の心を残らず伝えたいのに、うまい言葉が浮かばず、もどかしかった。
「蓬莱に往くまでの間、この終の涯でも、出歩くときは注意なさいね。それから、おまえが蓬莱に往くときは、私がおまえの姿にまじないをかけます」
 そう続けた長に、夜光は首を傾げた。
「まじない?」
「その髪と瞳では、人の間に立ち混じることすらできないでしょう。ですから、蓬莱に居る間はその色が隠れるよう、普通の人間に見えるようにまじないをかけます。今もおまえの角を隠しているようにね」
 長は少し苦いように微笑した。
「己と姿形があからさまに違うものを避け、恐れるのは、人が弱きものであるがゆえの、危険をあらかじめ排除しようという本能でもあるのでしょう。それを善いとは、私は思いません。ですが力弱きものであるがゆえのそれを、力持つものが一方的に咎めるのもまた、傲慢でしょう」
 どちらもそれぞれにままならぬと、長は独り言のように呟いた。それは何かしらの返答を求めてのものではないように思えたので、夜光はただ、はい、と小さく頷くだけにとどめた。

 長は何か考え込むように、しばらく視線を何処へともなく落として沈黙していた。
 やがて思考を切り替えるように、長は睫毛の長い瞳をゆっくり瞬き、その金色の眼差しを葵の上に流した。
「葵殿」
 突然名を呼ばれ、夜光の隣に黙って座っていた葵は少々驚いた。ものの見事に無視されていると思うほど、それまで長の視線は、一度たりとも葵に向けられることがなかったからだ。
「はい」
 真っ直ぐに捉えてくる長の視線に、葵は緊張して身構えた。隣で夜光も、黙ってはいたが心配そうな顔をした。
 葵は顎を引くと、何もやましいことはないのだからと、気を取り直して長の視線を受け止めた。
 長に良い感情を持たれている、とは思い難い。自分のしたことを考えると、長の寛恕を期待する方が間違っている。世話になった相手であり、心底感謝していたから、その長の怒りを買うのは心苦しくはあったが、そうであればこそ、誠意を持って対面したかった。
 そのままどれくらい向き合っていたのか、やがて長が身から力を抜くように小さく嘆息した。
 長は目を伏せると、そこからまたしばしの沈黙を置き、ようやく葵に向けて口を開いた。
「……葵殿」
「はい」
 何を言われても受け止めようと、だが夜光のことだけは譲れないと、葵は短く返事をした。
 長は顔を上げると、そんな葵にふわりと微笑んだ。ただし、その眼光は鋭いまま。
「もしも夜光を泣かせたりしたら、ただではおきませんからね?」
 何を言われたのかよく分からず、葵はしばし呆けてしまった。
「は……」
「思うことの一つや二つや三つはありますが、夜光があなたを選んだのですから、私は何も言いません。ただ、その子を心から慈しみ、守ってやって下さい」
 葵が驚いてすぐに返事をできないでいると、長はかつても葵に対してそうしたように、爪の先まで美しく磨かれ整えられた指を揃えて床に置き、頭を下げた。
「どうか、その子をよろしく頼みます。葵殿」
 やっとその言葉の意味を飲み込んだ葵が、慌てて威儀をただした。
 許してくれたのだ、何も言わず。それを理解した葵は、心からこみ上げてくる感謝と、自分のした数々のことを詫びたい気持ちにかられるまま、長に向かって深く平伏した。
「はい。その御心に背くことは決して致しません。……感謝致します、長殿」
 姿勢を元に戻した長が、再び微笑んだ。咲き乱れる芍薬のように艶やかに。


「さて。話が無事に丸くおさまったところで、俺はここらで失礼するかな」
 話が一段落したところで、それまで黙って様子を見守っていた槐が立ち上がった。
「もう行くのですか、槐?」
 問いかけた長に、槐がいつもの飄然とした様子で答えた。
「どうやら仙女殿は気が急いてたまらないらしい。どうせまた抜け出してくることも出来よう。機嫌を損ねないように、当分は素直に従っておく」
 その遣り取りを見ながら、夜光は思わず立ち上がっていた。
 槐に対し、まだ複雑な感情はある。でも長と一緒に今回の結果に導いてくれた、そこにある槐の心や払った犠牲を、ないがしろにすることはできなかった。
 槐は冗談まじりのように夜光を「息子」とは言うが、態度では決して「親」であるような振る舞いはしない。なまじ槐が何も言わないだけに、槐との間柄をこのままにしておいてはいけないように思った。
 槐は何も言わないが、夜光に向けられたその心はとうに分かっている。百年前、槐は決して好きで夜光のもとを離れたわけではない。懐かしそうに夜光を見る、夜光自身と同じ紫色の瞳の奥に宿る深い優しさや、小夜香という名を口にしたときに垣間見せた寂しげな表情に、夜光は気付いていた。
 何より、陵の出した交換条件を、槐は夜光のために呑んでくれたのだ。
「あ……」
 夜光は立ち上がったものの、だが何をどう切り出せばいいのか分からず、そして槐に向かって踏み出すこともできず、その場に立ち尽くしてしまった。
 それに気付き、槐が視線を巡らせた。無造作に長い闇色の髪と、墨染めの衣姿の夜叉は、しばし何かに迷うようにしていたが、やがて夜光に向かって歩み寄って来た。
 夜光は何をどう言えばいいのか分からぬまま、どんな顔で槐を見ればいいのかも分からぬまま、視線を俯かせた。何か言わねばならぬことは分かっている。感情の整理はまだうまくついていないが、槐を嫌いではないと、槐が父親であることを受け入れたいと思っていることだけは、自分で分かっていた。
「あ……あの……」
 礼だけは言わねばならない。そう思いながら、懸命に夜光が口を開きかけたとき。槐がそれにかぶせるように言った。
「夜光。一つだけ頼みがある」
 意外な言葉に、夜光は槐の顔を見上げた。
「一度だけでいい。おまえのもう一つの名を呼ばせてくれ。それに、ただ頷くだけでいいから返事をしてくれ」
 それまでと変わらぬ口調で告げられた言葉に、夜光は紫の瞳を瞠った。
 素顔の大半を覆い隠している簡素な面の下で、槐はやや照れくさそうに、だが懐かしげに笑んだ。
「おまえの名は、小夜香と二人で考えたんだ。小夜香が、白い姿がとても綺麗だと言ってな。雪か霧かで迷ったんだが、山あいにかかる朝霧の美しさがまた極上でなぁ。それで、霧になった」
 夜光の持つ色合いは、槐の本来の姿に生き写しだった。顔立ちも槐に似ているが、槐よりも柔らかい。小夜香によく似ている、と槐は夜光を見て言っていたから、きっと二人ともの容姿を、夜光はよく受け継いでいるのだろう。
 自分の身体には、間違いなく槐という夜叉の血が流れている。そして、小夜香という人間の女性の血も流れている。
 自分はこの人の子なのだ。そう思ったとき、夜光の心にすっとそれがなじんだ。それと共に思わず熱いものがこみあげて、涙が出そうになった。
 夜光は下を向いて唇を引き結び、なんとかそれを飲み込んだ。そうして紡いだ声は、そのせいで震えを帯びた、か細いものになってしまった。
「お……とうさま……」
 自分の前に立った槐が、小さく息を呑んだのが分かった。その顔を見上げることができないまま、夜光はなんとか言葉を続けた。
「……一度といわず、呼びたければ何度でも……お呼び下さい」
 言いながら、夜光は耳朶が熱くなった。
 槐の存在を受け入れることが怖いようでもあり、嬉しいようでもあった。そして無性に気恥ずかしい。誰かに自分から心を開くようなこんなことは、あまりにも馴染みがなくて慣れていなかった。
 少しの間棒立ちになっていた槐が、夜光に向かってさらに足を踏み出した。そして夜光の目の前まで来ると、その細く薄い身体を、ふわりと墨染めの袖に抱き締めた。
「沙霧。……すまなかった、ずっと」
 突然のことに夜光は驚いたが、墨染めの装束に包まれて視界がきかない中に耳に届いた槐の声に、身動きができなくなった。今まで聞いたことがない、槐の抑えられた声。沙霧、と呼ばれた中に宿っていた、深く優しく、愛しげで哀しげな響きに、理屈ではなく心の中に染み渡ってゆくものを感じた。
 ――父親なのだ。自分の。
「……はい……」
 涙がちになってしまいそうな声を懸命にこらえて、夜光は頷いた。すっぽりと包むように抱き締めてくれる槐の墨染めの袖が、胸があたたかかった。
「分かっております。……もう良いのです」
 夜光が見舞われた不幸は、槐のせいではない。槐のせいだとは思いたくない。夜光がそう思えるのだから、もうそれでいいのだ。
 槐はしばらくの間夜光を腕の中に抱き締めたまま、幼子に対するように乳白色の髪を撫でていた。夜光もそれが心地良く、若干気恥ずかしくはあったが、あえて動かずにされるままになっていた。
 やがて槐は、夜光を抱き締めていた腕をほどいた。
「息災でな。また顔を見に来る」
「はい。是非」
 槐を見上げ、自分でも驚くほど素直に、夜光はそう答えていた。一度思い切って受け入れてしまえば、それはあっけないほど簡単なことだった。
 それを見た槐が嬉しげに笑い、もう一度夜光の髪を、今度はくしゃりと幼い子供にするように撫でた。
 そして身を翻しかけたところで、槐は唐突に思い出したように葵を振り返った。
「おっと、そうだった。おい、そこのおまえ」
 ぞんざいな呼びかけに、親子の語らいの邪魔をするまい、と立ち上がっていくらか身を退けていた葵がきょとんとした。
「俺か?」
「おまえに決まっておろう。大事なものを忘れるところだった。ちょっと口を開けろ」
 槐はすたすたと、大股に葵に歩み寄る。
「口? 何のために」
「いいからそのままで、しばし待て」
 一方的な物言いだったが、葵は不思議そうにしつつも、言われるままに口を開けた。
 槐が右手を持ち上げ、掌をくるりとまわして軽く掲げた。と、何もなかったはずの掌の上、それもわずかに浮いた空中に、なんの前触れもなく、真っ白に輝く光の珠のようなものが生じた。
 まるで手品のような現象に、葵が目を丸くした。そのほんの僅かな瞬間に槐がふいと手を動かし、あっと思ったときには、葵の口の中にその光の珠が吸い込まれていた。
「!?!?!?」
 突然妙なものを口に含まされた葵が、仰天して自分の口元を押さえた。
 その胸のやや下、呑まされた光の珠がちょうど胃の腑に達したのではというあたりから、ふわりと薄い白銀の焔のような光が立ち昇った。
 光は葵の全身を包むように一瞬で拡散し、その身の奥に吸収されるように薄れ、さしたる間も置かずに消えていった。
「何だ、今のは……」
 葵が狐にでもつままれたような顔で、既に何事もない己の身を見下ろしながら首をひねった。突然の不可思議な光景に、夜光もぽかんと目を丸くしていた。
 二人からのもの問いたげな視線を受けて、槐は一人満足そうに頷いた。
「うむ、問題なく馴染んだな」
「馴染んだ?」
「俺の命の珠のひとつを、おまえにくれてやった。俺のような力の強い妖はたいてい命の珠をいくつか持っていて、寿命が阿呆かというほど長くてな。要は、俺の寿命をいくらかおまえに分けてやった、ということだ」
 槐からあっさりと告げられた言葉に、葵と夜光が驚きの表情を浮かべた。
「あなたの寿命を、俺に……?」
「そんな、なんてことを……!」
 状況を理解した夜光は顔色を変えたが、槐は素知らぬ顔でそれを一瞥し、再び葵を見下ろした。
「俺からの餞別だとでも思っておけ。おまえは人間で、夜光は半妖。夜光も並みの妖ほどは生きないだろうが、それでもおまえよりは、はるかに寿命が長い」
 思いの他真面目な槐の声音に、葵が息を呑んだ。
 葵は人間で、夜光は半妖であり、生き物としての種が違うから寿命がまったく違うのだ、という話は、さして難しい話でもなかった。むしろ、指摘されればもっともなことですらあった。
「だから、夜光と共に生き、添い遂げられる程度に寿命を分けてやったんだ。夜光を独りにされては困るからな」
 槐はにまりと葵に笑い、夜光に視線を移した。
「俺はおまえに、親らしいことを何もしてやれなかった。せめてこれくらいのことはさせてくれ」
「えん……お父様……」
 槐、と無意識に言いかけて、夜光は言い直した。
 自らの寿命を削って他人に分け与えるだなんて、いくら長寿であっても大変な話だった。なんということを、と思う一方、槐がそこにまで思い至らせてくれていたことに、言葉にならず胸が詰まった。
「……なんてことを……」
 葵とは寿命が違う。それは、今はできるだけ考えまいとはしていたが、避けては通れぬこととして、夜光の中に深い楔のように哀しく突き刺さっていたことだった。
 葵と目が合った。葵もまだ困惑は消せないようだが、その瞳には事情を理解した色があった。
 ――これで、離れなくてすむ。互いの寿命が尽きるまで、ずっと離れることなく寄り添っていられる。
 そう思ったら、とうとうこらえきれずに、夜光の頬に涙が零れた。せめて声はこらえようと顔を覆った夜光の頭を、槐が軽く笑って、ぽんぽんと叩いた。
「では、往く」
 あっさりとそれだけ言って、槐は外に向けて開け放たれている遣り戸の方へ歩き出した。夜光にも葵にも何を言わせる間も与えず、大股に遣り戸の外に出てゆくと、槐はそこでばさりと墨染めの衣を翻した。
「あっ……」
 慌てて夜光がそちらに駆け出したときには、槐の黒い姿は瞬く間につむじ風となって、その場から消え失せてしまっていた。
 夜光は諦め悪く遣り戸の外まで出て行ったが、広い庇の下には誰の姿もあるわけがなく、遣り水のきらめきや整えられた庭園が、ただ美しく広がるばかりだった。
 青く澄み渡った空が見えるばかりのその方角に向かって、葵が物言わず、深く一礼した。

 その様子を眺めながら、長もさらりと衣擦れの音をさせて、その場に立ち上がった。
「……また会いましょう」
 真の意味で何にもとらわれない気ままな旧友に向けて、感謝と親愛を込めて長は呟き、槐の消えた方向に静かに腰を折った。
 槐の出て行った遣り戸――そこはあの夜、百年振りに突然槐が開いて現れた場所でもあった――から、名残りのように桜の花びらが数枚迷い込んだ。
 それはひらりひらりと白い光を帯びて宙をすべり、床の上に舞い降りた。そこから消えた姿のかわりのように。もうずっと昔から、ここに出入りする者達を迎え、見送り続けてきたように。


 ざぁん、と、穏やかに広がる海が波音を立てる。
 虚ノ浜と呼ばれる浜辺を、夜光と葵はゆっくりと歩いていた。
 長との話が終わり、槐が去った後、二人はどちらからともなくここに足を運んだ。
 夜光は人目を忍ぶために、街中では頭から薄い紗をかけていたが、白く美しい砂浜には他に誰の姿もなく、今はそれを肩に落としていた。
 春の色をした海は、穏やかでどこまでも広い。虹色を帯びたような美しい独特の青空の中に、それほど強い光線を持たない太陽が、月虹に似た光の輪を纏って輝いている。
 この浜辺は、夜光と葵にとってはすべてが始まった場所だった。一度は悲哀の中ですべてが終わり、そして生まれ変わるように再会した場所でもあった。
 並んで特に何を言うでもなく、のんびりと砂を踏んで歩く。穏やかな沈黙が優しく、凪ぐように心地良かった。
 歩きながら、夜光は真っ直ぐな水平線に目を向けた。
 かつてここに一人で立ち、葵の匕首の綾錦の袋を海に流したことが、あの日と同じ水平線に重なり、眼裏に甦った。
 少し前まで、できるなら葵の匕首で胸を突いてしまいたいと、そればかりを思っていた。ただ葵に生きてくれと言われたから、いつか命果てたときに葵に胸を張って会いたいがために、そのためだけに生きていた。ひたすらに奈落に転げてゆく心を抱いて、こうして苦しみながら生きることが自分に与えられた罰なのだ、と思っていた。
 あのときを思えば、今の状況が信じられなかった。
 こんなことが本当にあるのだろうか、これは夢ではないのかと、夜光はまたふと不安になった。
 知らずに足を止め、揺れる眼差しで海を見つめていた夜光に、それを察したのだろう、葵が物言わず夜光の白い手を取った。暖かく皮膚の硬い、葵の手。その感触とぬくもりに、夜光ははっとして、海から葵に視線を巡らせた。
 葵は真っ直ぐに夜光に向き合い、笑った。夜光の中の不安を、雪を溶かす陽光のように暖かく消し去る笑顔だった。
「むこうにいったら、おまえのその髪と瞳の色が見られなくなるのが残念だな」
 夜光の乳白色の髪は、時折微風になびきながら、明るい陽光を受けてきらきらと白銀を帯びるように煌めいている。
 まだ僅かに揺れていた紫苑色の瞳が、ふと潤うように光り、葵の眼差しに微笑み返した。
「おまえさまと同じ色になるのでしたら、案外悪くありません」
 蓬莱に住む者たち、すなわち「人間」と同じ髪の色、瞳の色。それは皆、葵のように黒い。多少の個人差はあるにしても、終の涯の住人達のように様々な色彩を持つことはない。
「そんなに綺麗なものを惜しいとも思うが、何よりおまえの素のままの色ではなくなるだろう。やむを得ないとはいえ、それが口惜しい」
 残念そうに言った葵を正面に見て、夜光は身体の向きを変えた。己の手を取ってくれている葵の手に、重ねるように掌を乗せる。葵の陽に焼けた肌色に、真白い雪のような夜光の手はまぶしいほどに映えた。
 恐れ気もなく、ただ愛しげに、優しく自分を見つめてくれる葵の眼差しが、ここで葵に出逢うまではこういった愛情を知らなかった夜光の心を満たす。人ならぬものの容貌を、葵は綺麗だと心から褒めてくれる。葵は初めから、夜光が「人間ではない」ことを恐れなかった。夜光のことを、ただの夜光として、歪みない眼差しで正面から見てくれた。
 葵と心が行き違い、一度は決裂してしまったあの日すら。今ならば、夜光にも分かる。あのとき葵が嘆いていたのは、夜光が「化け物」だったことではない。人だの妖だのに関係なく、「ただの夜光」だと思ってくれていたからこそ、その心を裏切るような行為を見せてしまった夜光に、葵は驚き、混乱し、嘆いたのだ。
 葵の混じりけの無い眼差しが、かつて夜光自身も気が付いていなかった真心を揺り起こした。そして目覚めた心は、自分でも知らないうちにゆるやかに育まれながら、葵に向かっていた。
「……おまえさまと、話したいことがたくさんあります」
 滾々と透明に湧いてくる想いのままに葵を見つめながら、夜光は言った。
 あの夜。この砂浜で葵と身を重ね、これが最期だと思いながら、泣きながら後悔した。もっと多く葵と語っておけばよかった、もっとたくさん共に笑っておけばよかったと。
 あのような後悔はもうしたくない。今こうして葵と向き合っていられるのは、既に奇跡なのだから。神仏など何も救ってはくれないと思う夜光だが、己の力の及ばぬ巡り合せは確かに存在する。この奇跡の中に自分を立たせてくれたすべてのものに、言葉に尽くせぬほどの感謝が湧き上がってくる。
 罪深い身に与えられたこの奇跡を、生き直す機会を、もう二度と手放すまい、間違えるまいと、夜光は心の奥に強く誓った。
「俺もだ。おまえのことを、もっと知りたい」
 葵も逸らさずに、夜光の瞳を見返した。その瞳には、夜光と同じ想いと決意が宿っているようだった。
 葵は目を伏せ、夜光の手にふれている指に、それが確かにそこにあると確かめるように力を込めた。
「もう二度と、おまえの傍を離れない。共に生きてこそ、おまえの笑顔を見ることができる。おまえの声が聞ける」
 葵が顔を上げ、迷いも澱みもない黒い瞳が夜光をとらえて微笑した。
「誰かとひとつになって生きたいと、初めてそう思った。おまえの歓びにも哀しみにも、俺は添いたい。だから、少しずつでいいからおまえのことを教えてくれ」
「はい……」
 その手の暖かさに、力強い眼差しに、どうしても弱い心が震えて涙が滲みそうになってしまうのをこらえながら、夜光は頷いた。
 蓬莱に往かねばならぬことも、人の間に立ち混じれば否応なしに幼い日の記憶が揺さぶられて苦しむことになるだろうことも、今からそれを思うだけで恐ろしかった。独りでは到底、耐え切れはしない。
 けれど、どれほど不安で不確かな未来でも、葵が共にいてくれるなら。この手を取っていてくれるなら。
 葵という「人間」がいてくれたのだ。きっと、「人間」を赦し、受け入れることができるようになる。時間がかかっても、いつかきっと。
 葵の唇が、優しく夜光の唇にふれた。ふれるだけの口付けだったが、それは夜光の震えや恐怖を癒やすように、胸奥にまで柔らかな清水のように沁みた。
「そろそろ帰ろうか。あまり遅くなると、長殿が心配する」
 片手は夜光の手を取ったまま葵が言い、夜光も素直に頷いた。
「はい」
 出立までの間、この終の涯の光景をできるだけ胸にとどめたい。けれど離れなければならない長とのあと残り僅かな時間も、大事にしたかった。葵と今こうして共にいられる奇跡を思い、ここに到らせてくれた多くの尊い愛情を思い、夜光は薄く涙の浮いた瞳を瞬いた。
 独りではもう生きてゆけぬ。だがそれが、沁み渡るように、どこか誇らしく嬉しい。
 ――自分は、倖せだ。

 二人で並び、共に柔らかな砂を踏んで、ゆっくりと歩いてゆく。
 二人分のゆるやかな足跡が伸びる砂浜の上、春色の空はどこまでも穏やかに、遠い異界の彼方まで続くように、高く晴れ渡っていた。


(了)


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