cats and dogs

‐original BL novels‐



夜明けまで (二)

   § : 『INDEX/小説紹介』
▲「妖は宵闇に夢を見つ」シリーズ 目次へ

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13

<< 前のページ / 次のページ >>


 記憶にある槐の姿は、夜光と同じ仄輝くような乳白色の髪に、夜光よりもやや鋭い印象の、造作自体は似通った顔立ち。
 しかし今突然遣り戸を開いて現れた姿は、長の記憶にあるものと異なっていた。背格好や声、纏う妖気は、間違いなく「槐」という名を持つ旧友のものだ。だが乳白色だったはずの髪は、今は闇を吸ったような漆黒に変容していた。そして端整な面差しは、ほとんど面の下に隠れてしまっている。
 しかし多少姿が変わろうと、それが槐であることに変わりはなかった。
 長は微笑して、墨染めの衣姿の友人を部屋に招き入れた。
「しばらくですね、槐。一言くらい先触れを寄越せば良かったものを」
「百年も眠っている間に、式どもが何処ぞへ逃げ散ってしまったんだ。とりあえず疲れた。しばらくここで厄介になってもいいか」
 槐はかつて知ったるというように、遠慮もなく部屋に踏み込んできた。腰よりも長い無造作に伸びたような黒髪が揺れ、紙燭の明かりを孕んでいっそう闇色が深まったように見えた。
「勿論構いませんよ。では、部屋をひとつ用意させておきましょう」
 長は呼び鈴の紐を引いて側仕えの者を呼ぶと、手短にいくつかの指示を出した。
 部屋に灯かりを増やし、新たに持ってこさせた酒と肴の載った膳を間に、長はゆったりと旧友と対座した。
 槐の様子は、外から見える限りでは特に負傷している様子もない。だが肉眼では見えない命の核が、かつて知っているよりもかなり弱ったままであるのが感じ取れた。かつては白銀の輝きを帯びていた一対の角も、今はどこかくすんだ色に見える。
 何より、かつて槐という夜叉から感じ取れた鮮烈な白刃のような妖力の波動が、今は黒い靄に包まれたように濁っていた。その黒い靄は、槐の黒く染まった髪からも滲んでいるようだった。
「見たところ、まだ本調子とはいかないようですね」
 それらの様子を見て、長はやや眉を曇らせた。
 ――今からもう百年以上も前。数ある異界の中の一つである夜叉の国で、後年まで語り継がれるほど凄惨な戦が起きた。それは夜叉の国を治める後継者を巡ってのもので、当事は人間の女性を妻として蓬莱で暮らしていた槐も、位の高さと力の大きさから国に戻って関わらざるをえなかった。
 槐は脇息に凭れて杯を口に運びながら、つまらなそうに笑った。
「何しろあわや死に掛けたからな。あんな面倒事は二度と御免だ」
 槐の指先が、自らの顔の大半を覆っている面にふれた。
「この面の下の顔は、先の戦で潰された。敵の仕掛けてきた呪詛を浴びて、この身に流れる血も髪も、ご覧の通りの闇に染まった。これは黒ではなく闇の色だ。正直、生きているのが奇跡のような有り様だよ、俺は」
 種族や持ち合わせた力によっても差はあるが、総じて妖は人間よりもはるかに長寿である。それでも百年というのは、短いとは言えない長さだ。
 それだけの長さを傷を癒やすために眠り続け、どうにか動けるようになった今でも、槐の身からはかつて受けた傷が完全には癒えていない。何よりこの黒い靄のような呪詛の名残りは、呪詛そのものを解いて清めなければ消えないだろう。どれだけかつての戦で槐が負った手傷が深かったのか、それを察するのには充分だった。
「……よく、ここを訪ねて下さいました。それから、よくぞご無事で。おまえにまたこうして会えたことを嬉しく思います、槐」
 この様子からして、百年余の眠りから目覚めて身動きできるようになってすぐ、槐はここを訪れたのだろう。長はあらためてそれを思い、しみじみと槐の姿を眺めた。
「もう少しなじられるかと思っていたが。この百年の間に少し丸くなったのではないか、空?」
 今度は槐は、心からのようにおかしそうに笑った。その口調も笑い方も、昔から何も変わっていない。姿こそ闇色を帯びて変容してしまっているものの、槐のその気ままで豪放磊落な気質は何も変わっていないことが伝わり、長も思わず微笑した。
「おかげさまで。私も義理とはいえ、親になるという貴重な体験をさせてもらいましたからね」
「沙霧を引き取ってくれたのだったな、おまえは」
 素顔を隠す面の向こうで、槐が表情をあらためた。
「あのときは、式を飛ばすだけで精一杯だった。まさかその後、百年も身動きが取れなくなるとは思わなかったが。あれだけの言付けで手を尽くしてくれたことに感謝する」
「今こうして、無事に訪ねて下さったのですから。あの子にも私にも、それで充分ですよ」
 沙霧、と槐が呼ぶのは、夜光のもうひとつの名。長に引き取られる以前の、蓬莱にいた頃の夜光の名だ。
 視線を俯けた槐が、呟くように言った。
「小夜香(さやか)にも沙霧にも、すまないことをした。……あんなことになるのなら、初めからおまえに二人を預けてゆくべきだったな」
 小夜香とは、かつて槐が愛した人間の女性であり、夜光の母親の名であることは、長も知っていた。槐も好き好んで愛する者達の傍を離れたのではない、と分かっている長は、緩く首を振った。
「あのときは、何事につけてもおまえ一人の手には負えないことばかりでした。第一それを言うなら、私の方がもっと気を付けていれば良かったのですよ」
「あのときおまえは、俺が小夜香との間に子をなしたことさえ知らなかっただろうが」
 酒を呑みながら、槐は呆れたように笑った。そしてそれを、すぐにおさめる。
「小夜香が流行り病で死んだのは、俺が夜叉の国に戻ってからすぐのことだったようだ。人間とは脆いな。脆くて、儚い。本当に、少し目を離した一瞬の隙に逝かれてしまった」
「……ええ。本当に」
「沙霧は、息災か?」
 問うてから、気が付いたように槐は言い直した。
「ああ、違うか。今は夜光と呼ばれているんだったな」
「おまえがあの子を呼ぶ分には、沙霧で良いかと思いますよ」
「いや、あれは物心ついてからもうずっと夜光と呼ばれてきたんだろう。あれが俺のことを覚えているとも思えんしな。夜光でいい」
 何を思いながら槐がそう言ったのか、それは俯きがちであった上に面で顔がほとんど隠れているせいで、長には分からなかった。
 声音は、それまでとなんら変わらないように聞こえた。だが「息子に会いに来た」と言い、息災かと訊ねた槐が、血を分けた息子に対して無感動であるとも思えなかった。
 長寿である妖にとってはあまりにも短い期間だったとはいえ、小夜香という人間の女性と共に過ごし、生まれた我が子を愛でて暮らした時期も、槐にはあったのだろう。何より、危機に瀕した我が子を助けてくれと、自らも窮地に陥った中で槐は長に託したのだから。
「夜光は、誰の前に出しても恥ずかしくない立派な若者に育ちましたよ」
 長は脇息から身を起こし、静かに口を切った。
 人間と妖の間に生まれ、まだ幼いうちに庇護してくれる存在を失ってしまった夜光は、そのせいであらゆるものを歪められた。夜光が百呪の願に手を出したこと、そして今の状態についてを、実の親である槐に話さないわけにはいかないだろう。誰にとっても望ましい状態ではないからこそ。
 槐が知らないだろう、かつて夜光を人間の里から引き取ってきてから今に至るまでの出来事を、長は要点を押さえながら、ゆっくりと語り始めた。

 長の語る言葉に、槐はただじっと脇息に凭れたまま耳を傾けていた。その間ほぼ身じろぎもせず、酒にも肴にも手を出そうとせずに。
「……百呪の願とは、また思い切ったことを」
 一通り聞き終えると、槐は軽く溜め息をついた。それから長に向き直り、深く頭を下げた。
「あれをこの終の涯に置いてくれたことに、あらためて礼を言う。よくあれの面倒を見てくれた、空」
 長はやんわりと笑みを含んだ。
「ここは私の庭です。来るも自由、去るも自由。あの子がここに居たいと言う限り、私はあの子を受け入れて守りますよ」
 長はこの終の涯に、最も永く棲んでいる。しいておおっぴらにふれまわることなどしないが、長こそがその強大な妖力でこの終の涯という場所を守り、維持している存在なのだということは、古くからこの地にいるものであれば皆知っていることだった。
「そうだな。ここはそういう場所だったな」
 面を上げた槐が、思わずのように破顔した。
「おかげで、こんな呪詛に侵され他では煙たがられる俺でも、ここでなら悠々自適だ。おまえのむやみな寛大さには、心底恐れ入る」
「私にはこれが生き甲斐ですから。この美しく平穏な箱庭の番人であることが、何よりのね」
「神々の遊びのようなものだな」
 くつくつと槐は笑う。長は袖を通さず肩にかけていた生地の薄い長衣を引き上げて、脇息に肘をついた。
「私は、神などではありませんがねぇ」
「神も妖も、境界など何処にあるのか分からんさ。少なくともこの終の涯にとっては、おまえは神だろう」
 槐は膳に置いたままになっていた杯を手に取り、考え込むようにしながら口元に運んだ。
「それにしても、だ。……俺があれに親だと名乗り出るのは、今しばらくは控えたほうが良いかもしれんな」
 ぽつり、と呟いた槐に、その飲み干してからになった杯に注いでやりながら、長は答えた。
「本来のあの子であれば、事情が事情なのですから、悩みはしてもおまえを恨むようなことはないと思います。ですが今は、その方が無難かもしれませんね」
「恨まれても仕方がない、とは思っている」
 半分とはいえ夜叉の子であったばかりに、夜光は筆舌に尽くしがたい苦しみを受け、それが遠因となって百呪の願という呪わしい術に手を染めることになった。そしてその結果、底なしの沼にはまってゆくように、心から愛した葵という存在の命を奪うことになった。
 そこに渦巻く様々な感情は、今さら夜光自身にとっても理性の制御を受け付けない、どうにもならぬもののはずだ。
 しかし長は、こうして血を分けた息子を案じて訪ねて来た槐の感情もまた、無下にはしたくなかった。誰が悪いわけでもない。それに槐にとっては、夜光は息子であり、愛した女性の忘れ形見でもあるのだ。
「……それでは、こうしましょうか」
 しばらく頭を巡らせていた長は、黙って呑んでいる槐に向けて、睫毛の長い金色の瞳を持ち上げた。
「おまえを湯治客ということにして、ここに滞在する間、あの子におまえの側仕えとしてついてもらいます。湯治に来たというのも嘘ではありませんしね。しばらく様子を見て、親だと名乗るかどうか判断すれば良いでしょう」
 夜光が妖である父親を受け入れられれば、その身に流れる妖の血を、今よりは恨まずともすむようになるのではないだろうか。何より長としては、二人に失われた親子の絆を育ませてやりたかった。
「ほう。なかなか気の利いたことを思い付くじゃないか」
 槐も乗り気になったらしく、そして明らかに面白がるような色を湛えて、にやりと唇を笑ませた。
 昔から槐にしばしば見ていた、悪童めいたその笑みに、長は若干たしなめる表情になった。
「あの子は今や、私の子でもあるのですからね。側仕えといっても、あまり横柄に振る舞ったり、困らせるようなことは駄目ですよ?」
「ああ、分かった分かった。そう無理はさせんよ」
 天邪鬼なところのある槐は、昔から好感を持つ相手ほど、からかったり怒らせたりして喜ぶところがある。それを思い出して釘を刺した長に、槐は楽しそうに笑ったまま、いかにもおざなりに頷いた。


 眠りながら零した涙で枕が濡れ、その冷えた感触で夜光は目を覚ました。
 あまりよく眠れず、鈍い重さが芯から消えないままの頭で、薄明るくなっている視界を見渡す。最低限の家具があるばかりの質素な部屋が、障子を透かす夜明け刻の弱い明るさの中、紫色の瞳に映し出された。
 瞳も頬も涙で濡れていることは、いつも通りだった。手が無意識に枕元に置いた水晶の数珠と匕首を求めて動くことも、寝床の中でそれらを抱き込んで独りで咽び泣くことも、いつものことだった。
 葵が唯一つ残した形見である黒塗りの匕首は、もともとは家紋入りの綾錦の袋に収まっていたが、今では夜光が縫った袋にしまわれている。元の袋は、せめて葵の代わりに蓬莱に還れるといいと、夜光が海に流してしまったからだ。
 袋の口を解いて、匕首を取り出して抜いてしまいたい衝動を、それを胸に突き立ててしまいたい衝動を、これもいつものように、声を殺して泣きながら懸命に夜光はこらえた。
 ――夢にさえ葵は現れてくれない。
 夜ごと見る夢の中で、夜光はいつも、一人きりで真っ暗闇の中にいた。何も見えない暗闇は素足にひやりと冷たく、夜光はいつも泣きながら、果てのない暗さの中、葵の姿を探して彷徨い歩いた。
 きっと葵の魂は、今頃は極楽にあるのだろう。だから、生きながら煉獄に堕ちた夜光のもとになど、夢の中にでさえ現れてくれないのだ。このままきっと、夢の中でさえ、もう会えない。
 葵の名を声に出して呼ぶことすら、あまりにつらくてできなかった。夜光はただ数珠と匕首を抱き締めて、喉を震わせて泣き続けた。
 そうこうしているうちに、幾分かはまどろんだのだろう。次に目を開いたときには、視界は先程より明るくなっていた。
 明け方から、いやそれよりも前から泣き通していた瞼が腫れぼったく、頭も手脚も重かった。夜が明けて寝床に起き上がるたびに、疲労がまったく抜けていないのを感じる。
 それでも、何もせず横になっている方が夜光には苦痛だった。陽の明るさにいくらかでも救われたような気持ちになりながら、夜光はけだるさを引きずったまま身を起こした。
 数珠を首にかけ、地味な色の着物を纏い、匕首を大事に懐に挿し込む。顔を洗い、肩までの髪をくしけずる。夜光の暗く澱んだ心とは裏腹に、乳白色の髪はふわりと光を孕んで煌めいていた。
 身支度が済んでも、まだ勤めが始まるには時間があった。いつもながら朝食を摂る気にもなれず、かといって部屋に一人でいるのも息が詰まるようで、夜光はふらりと沓脱から庭に降りた。
 どうせ食事などたいして摂らなくても、死ぬことはない。あたりに満ちる精気から、生命を維持するための最低限の滋養は、半妖の身体は勝手に摂り入れてしまうのだから。
 葵を失ってしまってから、夜光は哀しみ嘆く以外の心が死んでしまったようだった。何を見ても聞いても、楽しいとも面白いとも思えない。
 ただ、美しい、と感じる心だけはかろうじで生きていた。夜光の足は無意識に庭を歩き、苔むした古い巌と大きな枝垂桜のある場所へと向かっていた。
 その場所は昔から、心が重く苦しいとき、誘われるように足を運んでいたところだった。常春の終の涯では、その大きな桜の古木は、いつでもふんだんに花をつけている。
 いつぞやは、ここで一人佇んでいたところに葵が現れたこともあった。それを思い出すと悲しく苦しかったが、美しく落ち着いた古木の下を訪れたい誘惑に勝てなかった。かつて葵がいた風景の中に立つことで、愚かな気休めであっても、葵とほんの少しでも繋がれる気もした。
 庭木の巡らされた小路を折れて目指す場所が見えてきたとき、夜光は歩みを止めた。
 淡く光の零れるような見事な枝垂桜の下に、墨染めの衣を纏った上背の高い男が立っていた。
 一瞬葵かと思ってひどく驚いたが、すぐに打ち消した。
 そこにいる姿は、葵よりも幾分背が高い。漆黒の闇を吸い込んだような黒髪が、葵よりも長く無造作になびいている。そしてその額には、一対の白い角。何より目を引いたのは、その人物が半端に欠けたような面をかけていたことだった。
 見覚えがなかったから、最玉楼を泊りがけで訪れた客なのだろう。誰かと顔をつきあわせたい気分でもなかった夜光は、黙って踵を返そうとした。それに気が付いたのだろう、左の頬から口元にかけてだけは素肌の見えていた男の顔が、夜光に巡らされた。
「おや」
 ほとんど素顔の窺えない男の視線が、夜光の姿を捉えてぴたりと止まった。
 目が合ったので、夜光は内心やむなく、腰を折ってお辞儀をした。客人相手に粗相があってはいけなかった。
 男は身体ごとで夜光に向き直り、面の下から物言わずじっと視線を向けてきた。夜光が怪訝に思うほどの間が生じた。顔のほとんどを覆う面のせいで、男の表情の仔細は読み取れなかった。
「……おまえが夜光か。空の言う通りだ。立派になったな」
 やがて男が、ひとりごちるように呟いた。
「え?」
 小さな声だったのであまりよく聞き取れず、だが名前を呼ばれたことだけは分かったので、夜光は思わず声を返していた。
 男はじっと夜光を見つめていたが、ふいに相好を崩した。顔の大半を面に覆われていてさえ笑ったことがはっきりと伝わる、それは晴れ晴れとした明快さだった。
「大事にされているのがよく分かる。良い親を持ったな、夜光」
「あの、旦那様は……?」
 親、ということは長の知人だろうかと思いながら夜光が問うと、男はよく通る声で答えた。
「俺の名は槐という。空の昔からの知り合いだ。ああ、空というのはあれのことだ、空亡の。空の好意で、しばらく湯治のために厄介になることになった」
 空亡、というのが長のことであるのは、夜光も知っていた。とても力の強い、他に二人といない妖。空亡といえば長のことであり、それだから長は空亡という呼び名以外に個別の名を持たないのだ、とも聞いていた。
 それにしても、長のことを「そら」などと気軽に呼び捨てるような相手には、今まで会ったことがなかった。
 夜光が少しばかり面食らっていると、槐と名乗った男がにやりと笑いかけてきた。それはどこか悪戯な子供のような笑い方だった。
「後で空から紹介されるはずだったんだがな。まあ、これもよしとするか」
「え?」
「空が言うには、ここに滞在する間、おまえを俺の側仕えにつけてくれるそうだ。まあ、何も身のまわりのこと全部をやってもらおうとは思っていない。どうせ暇だから、話し相手くらいにはなってくれるとありがたいがな」
「私が、ですか?」
 預かり知らぬうちに決まっていたようである話に、夜光はますます戸惑った。
 長の旧知であり、長が提案したのであれば、この槐という男はそうおかしな相手ではないのだろう。こうして向き合っていても、とりたてて嫌な気配は感じない。
 だがそれにしても、特定の誰かの側について働くというのは、正直なところ今の夜光にとっては億劫なことだった。愛想笑いも、誰かと口をきくことさえ、今は気力を絞らねばできぬほどだ。
 そんな夜光の状態を知らぬ長ではあるまいにと思いかけたが、逆にだからこそ、荒療治のつもりでその役割をあてがってきたのかもしれない、とも思った。
 何であれ、夜光に長の考えていることなど読み取れない。そして役目を与えられたのなら、それを務めるまでだった。
 夜光は深く腰を折り、槐という男に向かって、感情の宿らない静かな声で言った。
「私にできることであれば、精一杯務めさせて頂きます。よろしくお願いいたします、槐様」
 深く頭を下げた夜光には、槐の様子は窺えなかった。すぐに言葉は返らず、やや間があってから、槐から声が返った。
「こちらこそ、よろしく頼む。夜光」
 その呼びかけを合図に瞳を上げた夜光は、墨染めの衣に舞う桜の花びらが映える槐が、飾り気のない面の奥で、ひどく懐かしげに瞳を細めるのを見た、気がした。
 面から覗く槐の目許は、光の加減などもあってはっきりとは見えない。だからそれも気のせいか、錯覚かもしれなかった。
 だが夜光は、ひとつのことだけは束の間のうちに見て取っていた。
 面の向こうに見える、紫水晶のような、紫苑のような鮮やかで透明な瞳の色。その色を見たとき、夜光は無意識に瞬いていた。
 この色には見覚えがある。それを見ているのは鏡の中。夜光自身の瞳の色に、それはとてもよく似ていた。


<< 前のページ / 次のページ >>


▲「妖は宵闇に夢を見つ」シリーズ 目次へ




web拍手 by FC2
▲コメント(拍手)&返信欄
コメント大歓迎、お気軽にどうぞ!